「ブログと真実」 ”死”と思い出

私のブログのテーマは『過去の再構築』である。”失われた時を求める”ことにも近い。”過去の再現”ではないため、ここに記すことのすべてが事実であるわけではないのだが、事実に基づき、不要なものは除き、強調したいところは強調する。すなわち脚色をほどこすのである。このブログによって私自身の人格を判断されてはちと困る、要はそう言いたいのである。ブログは独立した思想体系を持ちながら、ほんの少しでもおもしろさと意義がうまれるよう試行錯誤して書いている。世界三大自伝の一つと言われるゲーテが書いた『詩と真実』、私はここで『ブログと真実』とでも言いたいような気がする。『詩と真実』、これが意味するところを私は少し掴みつつあるのではないであろうかと思う。こうして二項が並べられることが可能であるのは、互いに関係性を持っているからであるし、また二つで一つの何か深い意味を含んでいる。ブログと真実は異なる。いや、現実と真実が異なり、ブログと真実は同等であるのかもしれない。私によって忘れられた私の過去は、もはや何でもない。ブログには再構築された過去とは異なる世界が広がる。過去が失われる代わりに新たな認識対象に変わって把握させられている。現実よりも印象が強調された過去を私は持つことになる。

「死」によって突然過去が全く違った姿をみせることに私は愕然とした。それはまるで、いつでも過去という、中にいれられているものを自由に動かせるようなビン容器に突然フタが締められ、中の様子は変えることができなくなってしまうばかりか、死という暗幕をかけられてしまうようであった。そしてそのビン容器はぼんやりと美しい思い出としてやわらかな明るい光に照らされるのだ。

特に彼の死は未来の絶望であるよりも、喪失であるほうが大きかった。すべてが美しき思い出となり、彼が関係する思い出のすべてが、彼を中心とした思い出に変化した。私は自分自身に別れを告げるまで、今後ただひたすら喪失し続けるのである。さわやかで凛とした思い出が、悲しさの色味をおびて私の心を圧迫するであろう。私はすっかり年をとってしまった。毎日なにかが失われていく。

「死」は一度でも訪れれば、万事休す。運よく一度も訪れなければ、それが生きているということ。たまたま心筋梗塞になってしまった、もしそのときならなければ?今も生きているに違いない。肉体は若く、今にも動き出しそうだった。しかし、燃やされ灰になる運命とはこれ如何に?「死」を意識して生きる?それすらも無力だ。どんな生き方をしたとしても、その一切を修復不能の過去へと葬り去る。奇跡の積み重なりで成り立つ、現実に私は何を与えようというのであろうか?美しき思い出、それはその時間を共に過ごした人々のたのしそうな、うれしそうな笑顔であり、彼らが私に与えてくれた思いやりではないだろうか。
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虚無に蔽われたこの世界、ありがとう


テレビ離れ、活字離れ、セックス離れ……われわれの行き着く先は虚無なのか。

この”離れ”によって経済や社会が損なわれるため、このようなシグナルが発信される。だからといってこのシグナルによって改善されるわけもないので、ほとんどこうした言葉は意味を持たない。実際にこうした現状に直面しているそれぞれの業界はなんとか改善しようと努力をしているようだが、一度生まれた悪循環を好循環にすることはほとんど不可能なのである。それよりも、こうした現状に乗じて新たな流れを生み出すような試みをしたほうがよさそうだ。人間は飽きやすく、欲望は際限ない。栄枯盛衰。憂うことでもないのだが、メディアは騒ぎ立てている。

テレビがつまらなくなり、出版業界の元気がなくなり、男女交流が少なくなる……、私には好都合だ。

テレビは魔力を持っていて、一度つけてしまうとダラダラといつまでも見続けてしまう。だが、つまらなければテレビをつけなくてすみ、私は時間を手に入れることができる。本が売れない、中身の薄い本が大量に出版され、文学の価値は相対的に上がり、また読書する人間が少なくなればなっただけ、質のいい読書をする人間は有益な時間を邪魔されることなく、他者に侵されることなく手に入れることができる。自分しか知らない、オアシスを知っているような快い気分で読書ができる。本のことが話題に上らないため、余計な労力、余分な情報が入らなくてすむ。

電車に乗ると、殆どの人がスマホでなにかしているのだが、何をそんなにすることがあるのか私には分からない。私もスマホを持っているのだけれど、SNSなんて素人がやっていることだから薄っぺらくておもしろいわけもないし、ネットの情報はでたらめで、ゲームはクソゲー。スマホに時間をとられることもない。私に楽しみを与えてくれるものは、すっかり厳選されて、文学・芸術・音楽・表象・夢想・思索。食べ物なんて何を食べてもそんなに変わりはないのに、テレビでは過剰に高カロリーで希少な食材を使った料理などが紹介されている。欲を満たすための情報を垂れ流しているテレビは本当にくだらないと思う。

このくだらない世界のおかげで、私は自分の楽しみに没頭することができる。自然の美しさ、身近な人間関係、芸術、純粋な人々の営みに心を向けることができる。虚無に蔽われたこの世界、ありがとう。
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奥飛騨温泉郷の離れ 福地温泉 スタッドレスタイヤを契機に


購入したBMWミニにはサービスとしてスタッドレスタイヤも付けてもらえた。とはいえ、私は雪国に住んでいるわけではないので使う機会は実際皆無である。まあでも、せっかくスタッドレスタイヤがあるのだから使おうという気になる。冬の足音はすぐそこに聞こえていた。雪国といえば、名古屋から思いつくのは岐阜か長野。毎年冬になると私は奥飛騨か志賀高原あたりの温泉へ交互に入りに行くようになっていたが、今年は奥飛騨にいこうかしらと思っていたところであった。奥飛騨は紛れもない豪雪地帯、スタッドレスタイヤの本領発揮するにはもってこいの環境。私の物事の進め方はこういった具合だ。偶然性を含んだ出来事に対して最適かつ合理的な行動をとるのである。私は他者や自然事象による反応によって人生を歩んでいる心持ちがする。

今こうしてブログを書いている現実世界では雨は全然降らないけれど、梅雨入りしている。夏がすぐそこだ。ブログでは二年前の冬の出来事を綴っている。失われた時を求めながら、自世界の再構築を私は試みているわけだが、徐々に現実に近づいてきているが、心配はいらない。現実を超えていくことはありえないし、常に現実を追想し、再構築するという図式は変わらない。「魔の山」が私に教えてくれたように、時間をなるべく細分化することで充実した過去を実現し、その充実した過去を未来に投射しようというのである。過去が現実に近づきつつあるのは、私が現実逃避を控えるようになったことと大いに関係している。つつじ園のツツジが美しく思えた時期があった。しかし、今は通勤途中に道路の真ん中で堂々と咲き誇る夾竹桃に生きる勇気をもらい、言葉を失うほど美しく思える。もはや空想と散歩によってどこにでも桃源郷は現れる。

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奥飛騨温泉郷は私の初めての冒険の一つに数えることができる。氷瀑と秘湯。平湯・福地・新平湯・栃尾・新穂高という五つの温泉地からなる奥飛騨温泉郷はそのどれもが豊富な湯量を誇り、泉質も間違いない。その冒険となったのは新穂高温泉で、一番奥地にあるまさに秘湯でほとんど野湯に近かった。心身ともに余裕と充実にあった私は、奥飛騨の離れと呼ばれる「福地温泉」に行くことにした。奥飛騨温泉のはなれと呼ばれることもあるようで、少し外れたところにあり、周りは静寂に包まれている。規模は大きくないがそれだけ上質な宿が並び、奥飛騨温泉郷随一の有名宿「湯元 長座」もここ福地温泉にある。私が選んだのは泉質にこだわり、緑褐色の濁り湯を持つ「元湯 孫九郎」。最近リニューアルされたという内湯が決め手となった。
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人に嫌われる才能 相手の気持ちが分からない

気づくと僕はひとりぼっちになっていた。どうしたら人に嫌われずにすむだろう?どうすれば人は僕を好いてくれるだろう?小学生の頃ずっと考えていた。Y君が人気者だったので一生懸命僕は彼のことを研究したのだけれど、どうしても僕は好きになることはできなかったので、彼のふるまいを参考にするということはなかった。しかし周りのみんなはY君のことが好きなのだから、私はますます仲間外れという形になっていった。僕は誰とも仲良くすることができなかったので、悔しさもあって一人で―その現実も忘れるために、自分を鍛えることにした。幸い、僕は野球に熱中していたので、いつも一人で練習をしていた。走ったり、素振りをしたり、小学生のすることだからその程度のことだ。小学生高学年のころの記憶に、誰か友達と仲良く遊んだ記憶はなく、部活の監督との関係もうまくゆかず、ある日のこと、僕はピッチャーだったので投球練習をするために、同級生のキャッチャーの子に相手を頼んだが無視された。あとで彼になぜ受けてくれない?と迫るとHの球は受けなくていいと監督のに言われたとのことだった。私は段々部活の居場所がなくなって、最後の試合を迎える前、私の存在はなきものとなり、チーム一丸となって練習に励む姿を校舎の三階の窓から眺めながら、担任の先生に「人生ってむなしいものですね」と私が言うと、「むなしいなんて言わないで」と言った先生の悲しそうな顔を今でもよく覚えている。

そんな具合で中学校にあがったものだから、必死に今まで関わりのなかったようなおとなしそうな子と友達になろうと試行錯誤したのだが、本当の友情など芽ばえるわけもなく、一層孤独感を募らせただけだった。あの年頃の孤独は辛かった!そして、過酷だったのは先輩からの仕打ちであった。努力の甲斐あって、私は先輩の試合に出してもらえていたのだが、グラウンドでは罵られ、外では陰口をたたかれていた。暴力を振るわれたこともなんどかあった。同級生と違って、味方をしてくれる先輩もいないではなかったが、そうした攻撃はなかなか他者が防げるようなものではないのである。

人間はある程度は孤独に慣れてくるものである。高校では自閉症ではないかと密かに疑われていたようである。のちに、サイコパスだと非難されたこともあるが、この頃から、己の人間性の異常に気づき始めた。私は周りがおかしいと思っていたのだが、その実私自身がおかしかったのである。私はすすんで人目を避け、家に閉じこもりがちになっていた。野球も勉強もあきらめざるを得なくなった時の私はどん底を見たような気がする。そこで出会ったのが文学であった。文学は私の生きる希望であった。

どんな局面であっても、私は社会の不適格性というものにぶつかってしまう。ブログを通じて、私はまた、かつての嫌われる自分を見出したのである。嫌われる勇気なんて平和なものだ。好かれようと思って、善をなそうとして、正確に嫌われるのである。心当たりはないではない。包み隠さずに言えば、私は人の気持ちというのが全くわからないのである。なぜなら、私が感情に乏しく、道徳観によってすべてのものごとを計り、合理的に処理することしか意識が向かないからである。孤独に親しみすぎて、感情をなくしてしまったのかもしれない。乾いた沖縄の大地、傷ついた人々、沖縄の今も爪痕を残す悲しい歴史。ただそうしたことが悲しいのである。道徳、感情、それ以外に何を基に他者と接すればいいというのだろうか、楽しさのもつ、快楽の負の側面よ。まじめになればそれだけ、孤独は深まるばかりではないか。今では人から好かれたいとは全く思わなくなったけれども、それゆえ速攻で人から疎まれるようにもなった。人から嫌われる才能を私は持っているらしい。
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ドライバーをワクワクさせる車 BMWミニ

今の社会で価値があるとされるもの、「お金」、「学歴」、「若さ」、「健康」。私は例としてこれらをあげてみる。共通点があることがわかる、それはどれも私たちの人生の可能性を広げてくれるものであるということだ。

さて、我が愛車たちの紹介記事も今回で最後である。なぜなら、今現在乗っている車にようやくたどり着いたからだ。読者にとってはつまらなかっただろうけれども、私にとっては懐かしくもあり、以前よりも多少調べたりすることによって深く知ることができたりして非常に面白かった。私は自分が愛してやまないものに対してはやはり誇りを持ちたいと思うし、その愛を深めていきたいと思う。

新たな車は何にしようかなーと考えながら、財政事情を確かめてみると以前より潤っており、候補となる車の水準を一段階上げることができることが判明した。まさに、お金を持つことで可能性を広げることができるということを体験したのである。具体的には中古のフォルクスワーゲンまでが精いっぱいだったのに、中古のミニを選択肢に加えることができたのだ。私の認識では、外車のもっともリーズナブルなメーカーはフォルクスワーゲンである。ミニはギリギリ高級車の部類だ。外車は新車は恐ろしく高価だが、中古となるとその反動でお買い得感が出てくるのだ。それも私が外車好きな理由の一つではある。ミニといえば、現行のBMWミニではなく、いわゆるクラシックミニがかわいくて、パワフルで、ラリーでの優勝など、圧倒的存在感があって、世界の名車の代表格であるわけだが、私の功利主義的な性格上、クラシックミニはいろいろと不都合があった。デザイン性やファッション性では劣るものの、安全性や維持費を考慮してBMWミニを購入することにした。

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車のデザイン上のネックはグリルにあると私は考えているが、ミニもその例に漏れない。クラシックミニでさえ、そのグリルには不満を感じないでもない。私は大胆にもあえて色消しのグリルタイプのを選んでみた。現行モデルなんかは特にそうであるが、ミニはとにかくカスタマイズが多彩で、この場合でもルーフやグリル、ミラーなど、内装もまた同様に様々なタイプがある。カラーリングは伝統的なブリティッシュグリーン。初代BMWミニで、エンジンはクライスラーとBMWの共同開発のようだが、ボディフォルムにクライスラーっぽさを感じるのは気のせいであろうか。

そして内装には感激した。先代からの名残をとどめているど真ん中に配された速度計は実におしゃれだ。MTも魅力的だったが、ATがCVTであったため、興味本位からATを選択した。走り出しがベルトによって独特のリズムである。操作性はゴーカートのよう。車に乗るってワクワクすることなんだ!そんなことを教えてくれる車だ。
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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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