理解できない人間性 友への不信感 競馬人生終了のお知らせ


こんな形で友達に不信感を抱くことになるとは思わなかった。

彼は天才でもペテン師でもなく―ああ、ペテン師でなかっただけよかったのかも!私の理解を超える人間性の持ち主であった。私には寂しさが残った。彼が必勝法があるからぜひやろうといって競馬を始めたわけだが、私の作戦であった彼のその必勝法どおりに、すなわち彼と同じ馬券を買うということがなぜか受け入れられなかった。どうする?と彼に聞くと「○○を軸に3連単で」と返答があるのでその通りにしたことを告げると「さて、どうしようかな、わい」と私の意図を無視した、とぼけたような、間の抜けたような返事が来る。必勝法があるっていうならそれを俺にも適用させてくれよと私は思うのだが、友人とはいえその手の内は明かしたくないということなのだろうか。それを当てにしていた私も悪いのかもしれないが―ならば競馬で勝てるからやろうと友人を誘うとはいったいどういうつもりなのだろうか?私にはまったくわからなくなってしまった―自分は儲けて、友人は損をすればいいという了見なのだろうか?いや、彼は単純に私と競馬が楽しみたかったので、たまたま長年続けてきた競馬で、勝ちが続き、それをあたかもずっと勝ち続けているように見せかけて誘惑したのだ。とはいえ、あと5万円で100万円の儲けになるという。私が彼と同じ賭け方をしたつもりで、外れると彼は同じレースで当たったという。なぜ同じ賭け方をさせないのか理解できないのだが、私が仮に必勝法なるものを見つけたのであればその方法を友人に教えて一緒に勝とうと思うのだがめでたいのだろうか。彼と同じように賭けるつもりで始めたのだが、彼がそうさせないので私は止めると彼に告げた。すると「残念」「でも英断」と言った。

「一回勝ちたかったな」

「レース選びが大事っすね」

「いいレースとか教えてくれるかと思ってたよ」

「わら」

結局、一回当たったがガミってしまい、計35000円ほどの損失に終わった。私の競馬人生は終わった。

彼の口座を使って賭けていたので金を振り込むよといっても、いつでもいいっすよ。という。なぜかすぐに払わせない。私には理解ができない人間性だった。ただ、信頼関係を築くことは難しく感じられ、付き合っていて私に利をもたらしてくれるとも思えなかったので徐々に彼からは遠ざかるつもりである。

小説「オン・ザ・ロード」がつまらなすぎる 飯食って、セックスするしかないのか


河出書房新社の「オン・ザ・ロード」がつまらなすぎる。助けてくれ。

何がつまらないかって、描いている世界がつまらないから、どんな書き方をしたってつまらない。しかもその書き方だって薄っぺらい登場人物にぶつ切りにされたアメリカ大陸放浪記。自然が多く、広大で、美しいはずのアメリカ大陸は単純に描かれ、色あせてしまっている。そこで暮らす人々はもっといきいきしているはずではないのか?そうでもなさそうだ、当時の時代がそうだったのであろうか。私には分からないが。こんなつまらない小説は初めてだ。火にくべたって惜しくない。時間の無駄。これがある人々にはバイブルらしい。謎。

この世界はどんどんつまらなくなるし、文学もつまらなくなっていくのだな、と妙に納得してしまった。ゲーテはおもしろいことを書いてたなぁ。魔の山も好きだな。ドイツ文学、好きなのかしら。

私は、毎日やることがない。つまらない。飯食って、セックスするしかないのか、ばかばかしい。ずっと自殺しようかな、なんて考えている。生きてても仕方ないなと思うけど、未来のことは分からないからただ根拠なく期待しているから生きていられる。

やるべきことは?生きる意味は?はっきりしている、生きる意味なんてはじめからないんだと。善も悪も、ない。どうでもいい、おもしろいことはないのか、生きたいと思えるようなことはないのだろうか。何か月もこんな感じで過ごしている。文学に意味を求めてはいけないんだろうけど、なんだか虚しくなってきちゃう。

『道徳感情論』 私の精神の成長の記録


この世界には、”読むべき”ではなく、”読まなければならない”書物というものがあると私は思う。それは現代に生きる人々の義務であり、この世界の未来のための責任であると信じている。その一つに『国富論』がある。著者はアダム・スミスで、「見えざる手」はあまりに有名であろう。だが、岩波文庫で『国富論』を検索すると全四冊の大作であり、社会科学を意味する白帯、特に社会科学においては無知の私にとってはとても手の出せない代物であった。また『国富論』と経済学の双璧をなすともいえる『資本論 マルクス著』に至っては全九冊であり、もはや私にはこれを読破する時間も、体力も残っておらず、それを理解するには余りに貧弱な頭脳であるため、あきらめていた。

「知ってるか、アダム・スミスは道徳の先生だったんだぜ?『国富論』の前に『道徳感情論』を読む必要があるね。まぁ、それをしっかりと理解したうえで『国富論』に臨むことだよ。『道徳感情論』はたしかに『国富論』ほど有名ではないかもしれないが、アダム・スミスの思想の根幹にあるものはこちらに色濃く表現されているように思う。」

Pはこんなことを言った。『道徳感情論』か、調べてみると上下巻であり、なるほど道徳であるならば、経済を論じられるよりも理解できそうな気もした。

このブログはずっと文学作品の抜粋を冒頭にかかげ、そこから紡ぎ出された思索と思想をつづるスタイルをとっていたが、私がこの『道徳感情論』を読み進め、その最中も、読み終えたときも、私の得た感想というのは未理解であった。いかに私の知力が乏しいか、それを改めて痛感させる書物であった。私たちは基本的に経験によってしか理解することはできないのだと思う、だが賢い人間というのは経験をせずして、他者の言論を理解することができるのであり、ゆえに人生で得るもの以上のなにかを説明することができるのではないだろうか。知力の乏しい私が、さも分かったように文学作品を論ずるのは間違っている。私ができることと言えば、その書物によって何を感じ、どのように成長することができるのか、その可能性を見出すことでしかない。文学に親しむきっかけになればとの思いも確かにあった。しかしながら、それは益のないことのようであるし、私の成長を綴ることの方がよほど、文学的ではないだろうか。私は作家になりたいわけでも、思想家になりたいわけでも、宗教家になりたいわけでも、資産家になりたいわけでもないのである。自分自身になろうとしているようでもあるし、自分自身を凌駕していこうとしているようでもある。あるいは、自分自身を無に帰そうとしているようでもある。

一人の人間として社会で生きられるように育ててくれた親への感謝

ああ、子に対する母の愛には、他のあらゆる愛を凌駕する永遠のやさしさが秘められている。この種の愛は我欲によって冷まされることはまずない。ましてや、危険に晒されたからといって怯え慄くこともない。また、その子が立派な人物に成長しなかったからと言って、その愛情が消滅することはない。母親というものは自分の生涯のあらゆる歓楽を犠牲にしてまでも、子供のために何かをしてやりたいと考えるものである。親はすべての喜びを、子供のために捧げるのである。親は子供の名誉を誇り、子供の立身栄達を喜ぶのだ。しかし、もしわが子に不幸が降りかかるようなことがあれば、不憫さゆえに親はその子をなおさらいとおしく思うのだ。わが子に不名誉が及ぶことがあったとしても、それにかまわず親は息子を愛して慈しむのである。もしも、全世界の人々がわが子を見捨てたとしても、母親は愛しい自分の息子を守るものである。   『スケッチ・ブック』 アーヴィング著より



この春、私は家を出た。かつて思い描いた未来では、私はとっくに家を出て、自立して、立派な人物になっていたはずだった。親を安心させ、親孝行らしい親孝行の一つや二つやり遂げているはずだった。ところが、ずいぶん遠回りをしてしまって、私も若さを失い、親もすっかり年老いて、私が果たそうとした立派な親孝行はこの遅れによって難しいものになり、どうやって形を繕おうとも苦い思いが混じってしまうであろう。仮に、親子が信頼しあい、運命がもたらしたその問題を受け止め、力を合わせて乗り越えることができたなら、その絆は生涯かたく結ばれたままであったであろう。私自身は精いっぱい向き合ったつもりだ、そして親も自分自身に向き合い、親としてのあるべき姿を模索したであろう。しかし、問題を正しく把握し、私を理解することはできなかったようだった。人は、己が経験したことのないことは想像することさえ難しい、ましてやそれを理解することなど不可能である。私はこう理解していた、だがせめて親身になって分かろうという心と心を氷解させようという努力を感じたかった。ついに私は希望も夢もあきらめて、そのまま故郷に残ることにした。家を出る大義はなくなった。親と過ごす時間の有限に初めて思いをはせたのはこのときだった。親と過ごすこの当たり前の時間を惜しんで生活し、終わりを予期し、永遠を見いだせないかと奮闘した。自分の命を捨ててでもわが子を守るという母の言葉と、無理解という大きな矛盾に私は大いに苦しんだ。やがて仕事を始め、少しずつ自分の力で立とうという人生への挑戦に駆り立てられていった。振り返れば、その時その時に課題があり、深慮があった。自立のための準備期間と言えなくもなさそうだが、怠慢とも結論できそうだ。あれほど長く、親元で暮らしていたにもかかわらず、日々自分の力で生活を送れていることは少なからず私自身驚嘆した。親元を離れて初めて親のありがたみが分かるというが―これはおそらく不便を感じて、親の世話がいかに行き届いていたか、どれだけその配慮の元、守られ助けられていたかに気づくということだろうが、私の場合、何不自由なく親がいたときと変わりなく生活を送れていることに気づいた時、親がいかに私を鍛え、自立するための教育を与えてくれたか、そのことを示していた。規則正しく、身辺整理を怠らず、日々を大切に生きること、それを何度も何度も無意識のレベルにまで刷り込む作業を私は知らず知らずのうちに親元で施されていたのである。一人の人間が、一人の人間として社会で生きること、それはとても尊い。私は一人、心で親に向かって、今まで感じたことのない崇高な感謝と尊敬の念を抱いた。

新人賞を目指す男のブログ


Y君、あなたは伝道的観念が強い(キリスト教を他人に伝道するということを直接に指すのではない。)割合に自己生活の内省が深刻を欠いではいないであろうか。自己の生活について自信が強すぎはしまいか。自己の生活に威力を感じ過ぎはしまいか。試みにあなたの周囲を見たまえ。何処に肯定的な、自信のある、強い生活を送ってるものがあろう。淋しい、弱い、自信のない、大きな声を出して他人に叫ぶのは羞しいような生活をしてる人ばかりではないか。そういう強い、肯定的な、力ある生活を送ろうと思ってあせりつつも、出来ないで疲労するものもある。廃頽するものもある。はなはだしきは自殺するものもある。あるいは蒼ざめ衰えてなお苦しき努力を続けてるものもある。人生は限りなく淋しい。あなたは少なくとも寂しい思索家などのいうことに今少し耳を傾ける必要はないであろうか。私はそれについてある実例をあなたに示したい。私の友人はさんざん行き悩んだ末、芸術より外に私の行く道はないといって、学校も欠席して毎日下宿屋の二階に蟄居して一生懸命創作をした。そして二百枚も書いた。私はこの頃世に出る片々たる短編小説などよりどれほど優れてるかしれないから、完成さして発表してはどうかといっていた。ところがある日私がその家を訪ねて続きを見せろといったらもう止したといって淋しそうな顔をした。それは惜しいではないか。あれほど熱心に書いたのに、どうしたのだと訊いたら「君、私の生活にはちっとも威力がない!創作したって何になろう。」といって顔をしかめた。私はその時二人の間に漂うた涙のない、耗り切れたような悲哀と、また理解と厳粛とをあなたにあなたに味わせたいと思う。   『愛と認識との出発』 倉田百三著より



私はずっと理系の人間であった。世界はすべて数式で構築され、問題には必ず答えが存在すると信じて疑わなかった。けれども、精神と肉体に私は矛盾を感じざるを得なかったし、群像は説明不可能であった。数学的に思考しながら、常に不可解な人間生活を送らなければならなかったのである。私はどうしても仮想空間を準備して、条件付けをした上でなければ感情を有する個人として存在することができなかった、故に文学に没頭していった。ラプラス変換の有効性に数学的思考の転回を学びながら、ラスコーリニコフの危険思想に惹かれていた。来る日も来る日も、文学を携え講義に臨み、私は文学に熱中していった。次第に講義から足は遠ざかり、学校へは行くものの、向かうのは図書館で、昼食もろくに取らず、気が付けば日が暮れていた。学校へ何をしに来ているのだか、徐々に重なる欠席は文学と私を堅く結びつけ、社会生活を遠ざける結果を約束していた。世界には文学あるのみだ、現実世界がなんだというのだ、文学こそが私にとって世界なのだ。私は勢い込んだ。夏目漱石が処女作であるにもかかわらず「吾輩は猫である」を約36万字という驚異的なボリュームで物したことに驚愕し、どうあってもせめてボリュームだけでも同等の作品に仕上げなければならないと机に向かった。じきに原稿用紙は200枚に及んだ。貧弱で心もとない小説が、首の座らない赤子のごとき作品が予感される出来栄えだった。しがない一学生になにができるであろう!私は旅をしようと思った、私は働こうと思った、私は恋をしようと思った、私は、人間の生活というものを一からやり直そうと思った。

Kは言った。

「そんな背伸びをしたって始まらない。君の作品はたしかに未熟だ。しかし、思いがよくこもっている。読みながら、ひたむきな君の姿勢が伝わってくる。それは重厚な長編を書き上げたらみあげたものだ。だが、完成させてみることだよ。すべてはそれからだ。私は思うんだが、新人賞に応募してみてはどうか。原稿用紙200枚程度だ。」

新人賞は私にとって全く世界の外側にある出来事だったため、はっとした。新人賞を目指して小説を書く、これはなかなかにおもしろいではないか。新人賞の応募総数は非常に多いそうだが、どのような人物が新人賞を狙って小説を書き、日々奮闘しているのかということはなかなか知られない。一人の新人賞を目指す男のブログというのも悪くない。私は早速ペンを走らせた。
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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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