中途半端な者は不幸である

夏目漱石の『門』の終盤にこんな言葉がでてくる。

「彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」

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これは宗教に限ったことではなく、いわゆる「道」とあらわせる物事に共通する真理をついていると思う。

日々の生活に何かしら「道」を見出すとするならば、誰もがこの思考を体験するだろう。

大方の人間は中途半端だ。そして中途半端な者はそれがゆえにどうしようもない苦悩を味わわなければならない。

中途半端であるならばいっそう、こういった言い方でよければ、馬鹿のほうがましである。

簡単な例を挙げれば、学歴がよいにも関わらず多くの収入を得られている人が少ないのを僕らはよく見る。

中途半端に頭がいい、中途半端に学歴がいい、中途半端に・・・あぁ自分のことを言われているようだ。

この箇所は前述のように、終盤に出てくるのだが、それまでは、漱石の文体、描写、時々うかがわれる葛藤や感情の通行などはさすがというものをみせてくれるし、もちろん思考を働かせる訓練にもなる。

しかし、小説のおもしろさや奥深さがあるかというとあまりないんじゃないかとおもう。

大方、退屈だといっても誤りではない気もする。

だから、特筆すべきはこの箇所ではないかとおもう。

ここで教えてくれることは、まじめさである。

軽はずみな発言や行動、思いつきの言動。


これらはやはり何かを成し遂げる、打ち勝つということの大きな障害である

僕たちは自分を大きく認識したがる。

大きく認識したがるとは、大きな思想や思考を持ちたがるということだ。


やる気も深い洞察も持たずして、なにかを始めたり、手に入れようとしたり、成功があたかもできると信じ込んだり。

深い洞察と努力とまじめさ。

たとえばこういった性質を備えていないものは周囲の人たちから自分を一線を画した人間だと思い込むのをやめなければならない。

惨めだ、おろかだ、見苦しい。

画像は漱石も実際に参禅をしたという「円覚寺」の三門である。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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