知恵の略奪者は知恵の運び屋

結局のところ、この剽窃癖が文筆家の骨の髄まで染み込んでいるのは、それなりに賢明な目的によるものではないだろうか。知識と知恵といった種子を最初に育苗した作物は必然的に朽ちるにもかかわらず、その種子だけは時代から時代へと播種して保存されるようにと神慮が働いているのではないだろうか。私はそのように考える。周知のとおり、自然は気まぐれに任せて、賢い方法で野鳥を介して土地から土地へと種子を伝播する。このように考えれば、動物は本来腐肉となり土に帰す存在であるし、また果実園や穀物畑を荒らす厄介な略奪者であることも事実だが、実際は自然の恵みを撒布して保存する役割を担う運び屋なのである。これと同様な趣向で、遠い昔に忘れられてしまった文筆家たちの美辞麗句を連ねた作品群は、こうした剽窃を旨とする文筆家たちの手に委ねられることで連綿と後世に伝えられるというわけだ。そして、ふたたび開花し、実を結ぶのである。それだけではない。そうした作品の多くは今世のみならず輪廻転生を経て、新たなフォルムを形成し、生まれ変わるのである。たとえば、以前はつまらぬ歴史書であったものが、ロマンス小説という形態へと変貌を遂げる。古い伝説が現代風の新たな戯曲として立ち現われ、堅苦しい哲学的な論文が小気味よい軽やかなタッチで綴られたエッセイとなるのだ。これはわが故国アメリカの森林地帯の開発にも似ている。格調高く林立する松林を焼き払った場所には、樫が芽を出し若木になって簇生(そうせい)するし、地に倒れて土壌のなかで朽ちる木の幹にはあらゆる種類の菌が繁殖するのである。

したがって、往時の文筆家たちが朽ちて、忘却の彼方へと消え去ったからと言って、そのことをことさら嘆く必要はない。彼らはただ自然の大法則に従っているに過ぎないのだ。その大法則によれば、この世の万事万物は存続の限界を有するものだが、その本質は永遠不滅であるということだ。動物も植物も世代から世代へと移りゆくが、その生命原理は後世に伝承されて種族の永久の繁栄をもたらす。これと同様に、ひとりの文筆家は新たな文筆家を生み、そして多くの子孫に恵まれ、しかるべき年齢に達すると、彼らの父祖、すなわち、その作品を盗用した文筆家たちと一緒に眠りにつくことになる。   『スケッチ・ブック』 アーヴィング作より



私はこのブログについて著作権の侵害だとか、まさに上記にあるように、知恵の略奪者、あるいは冒涜などと非難されたことがある。確かに引用と明記しようとも毎度毎度、文学作品の一部を―ときには今回のようにかなりの長文を冒頭に掲載し、まるで見出しのように宣伝効果を狙っているかのような構成になっているので作品の価値を利用してなんとかして利益を得ようとしているように見えなくもない。だが、私の本意はそんなことではない。アーヴィングが記したこの主張は多少私を擁護してくれるのではないだろうか、私は偉大な作家を汚す気などさらさらなく、ただ偉大な作家が残した言葉を多くの人に知ってもらい、できればそれが記されている作品を読んでみてほしいのである。それに加えて、100パーセントのうちのたとえ99パーセントが先人の言葉の引用や思想の受け売りだとしても、1パーセントでもオリジナリティのある新たな価値観や思想、知恵、そうしたものが生まれればそれは人類や世界にとって大きな意味を持つ。仮に、100パーセントがすべて他者による要素によって成立しているとしても、それによって生まれた混合物は本質は同等であったとしても異なる見方を引出すことにならないだろうか。また、私が記した思想や考え方が極端な劣化であったとしても、それは忘却の彼方に消え去って、引用部だけを読者は知識と知恵として吸収すればいいわけである。私が愚劣でひどく不徳な人間でも、今日まで連綿と読み継がれてきた傑作や名作を伝えていることだけでも意味があるはずなのだ。だからどうか、冒頭の引用部だけでも注意深く読んでもらいたい。私は文学の担い手でありたいと思う。残念でならないのは、私に文学の才能が無く、つまらぬ歴史書をロマンス小説へと華麗に変身させることはできないし、古い伝説を現代風の新たな戯曲としてよみがえらせることもできない、堅苦しい哲学的な論文を小気味よい軽やかなタッチで綴られたエッセイに仕立て上げることも不可能なのだ。これらに成功したら、どれだけ生の充足感に満たされるであろう。才能はなく技術もない、それでも文学が好きで、私は文学に関わることを欲する。思想は堂々巡りをするだろう、何度も同じ話を繰り返し、使い古された言葉を記すだろう。ばかばかしい、飽き飽きした、そう言いながら希望を語り、未来を嘆き、己を奮い立たせんとするであろう。

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バクテリアの一w

播種,種を播く,ひとが生きているうちにもっとも簡単におこないうること,かつ,たっといことではないでしょうか。
そして死ぬときには,だれでも土となり次の世代のための腐葉土となる。古今東西かわらない生の理。

文章をつづることをそのように考えられる,いいですねえ。蘖は思いがけないところにも生じますね。
文学の担い手でありたい。わたしもそうありたいとおもっています

わたしたちはなにかに,つねに “絶対に在るもの” に仮託しなければ,所詮なにもあらわすことはできない。
生き死に,こそ相対,ことばは無生無死だから絶対化して写すことができる,そんなことをおもいます。
さらには,自分の中に写されるべきものをもっている,だから写しあらわすことができる,しそれは剽窃ではないと思います。ことばを知りかつ考え体に含む。一として意味のないことばはないように,かならず値もあり微小であっても力がある,光あればうつすことができる。中國語の “書く” ,は “寫(写)す” という字をつかいます。

No title

僕のほとんどすべての言葉は、
僕のものではなくて、どこかで仕入れてきた、
ありふれた他人の言葉です。
そのありふれた言葉と格闘して、
悩んで、考えている人なら、
戦い、悩み、考えた他人の文章から、
戦い、悩み、考えた形跡を見つけます。
分かる人には分かる、
分からない人には分からない、
文章は、そんな在り方しかできません。

そして、hajimeさんの文章に、
戦い、悩み、考えた形跡を見つけることは、
僕がこの欄にコメントをつける動機です。

玄さんへ


ご無沙汰してます。こんばんは。

先日の「コミューン(commune)とは何か。正是『大同』」の記事は比較的私にも理解ができ、玄さんと言葉を交わしたいなと思っていた矢先だったので、コメントを頂戴して驚きもありましたがうれしかったです。気持ちが通じたのかなと思いました。

中国語はよくできていますね。日本に住んでいるとあたかも日本の現実が世界の現実であり、今以上の発展と改善は時と共に少しずつ行われていくよりほかないという感覚に陥りますが、実際には外国では当たり前に行われている日本が遅れていると言わざるをえない、劣っていると言わざるをえない政治や経済、教育などにおける事象が多そうですね。かつて日本の賢い人たちが海を渡り、海外から学ぶことが多かったのは、現代にも通じるものですね。温故知新も同様に現代に通じます。自国こそすぐれた国家だという考えを国民は持ちがちですが、それはとんでもない傲慢ですね。

”蘖は思いがけないところにも生じる”、その通りですね。剽窃ではない、私もそう考えていました。批判や指摘はあれど、言葉を知りかつ考え体に含む、このことを怠らず、このことに真摯に取り組めば人智を貶めることにはならないですよね。

ありがとうございました。

青梗菜さんへ


こんばんは。コメントありがとうございました。

不思議ですね、私にとっては斬新でアヴァンギャルドに映る言葉が青梗菜さんにとってはありふれた言葉だなんて。触れるもの、過ごす時間の違いによってによって生み出されるギャップでしょうか。とにかく青梗菜さんの詩は前衛的な感じがします。

私の文章から”戦い、悩み、考えた形跡”が感じられるのですね、とてもうれしいです。理解者がいるということは心強く、文芸をより一層自由に、伸びやかにするでしょう。

いつもありがとうございます。
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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