悔い改めの日々の始まり


余はここにおいてオスカル・ワイルドの『獄中記』De Profundisの中の一節を思い起こさざるをえない。基督は罪人をば人間の完成に最も近きものとして愛した。面白き盗賊をくだくだしい正直者に変ずるのは彼の目的ではなかった。彼はかつて世に知られなかった仕方において罪および苦悩を美しき神聖なる者となした。勿論罪人は悔い改めねばならぬ。しかしこれ彼が為した所のものを完成するのである。希臘人は人は己が過去を変ずることのできないものと考えた、神も過去を変ずる能わずという語もあった。しかし基督は最も普通の罪人もこれを能くし得ることを示した。例の放蕩子息が跪いて泣いた時、かれはその過去の罪悪および苦悩をば生涯において最も美しく神聖なる時となしたのであると基督がいわれるであろうといっている。
ワイルドは罪の人であった、故に能く罪の本質を知ったのである。   『善の研究』 西田幾多郎著より


私は人の心を傷つけたことがあるし、身体さえも傷つけ、血を流させたこともある。私は生来、傲慢で生意気で思いやりのない人間であった。あるとき私はまだ子どもであったが、持ち前の過信と慢心から、許されぬ過ちを犯してしまった。過失はすべて私にあり、ただそこにいたというだけで、相手は私によって血を流すはめになったのである。子どもだったとはいえ、私は衝動や無邪気さによってその暴力が繰り出されたのではなく、配慮の足りなさと利己心からであることをはっきりと理解し、認識していた。人間から鮮血が流れることに私はひどく動揺した、しかしそれ以上にこの罪深き所業を自覚してなんとも言い難い恐怖に襲われた。それは隠したりごまかしたりすることのできるような些事ではなく大事であった。私は罪人の如く家に戻り、罪人の如く、謝罪した。私は永久に彼に対して陽気に話しかけることはできないのだと悟った。へりくだって、後悔と謝罪の気持ちを抱きながら接するより罪の償い方がわからなかった。その出来事のあと、私と彼との関係は私にとって非常に難しいものとなってしまって、それはいまだに元通りにはなっていない。なるはずがないのである。10年以上も前のことだが、彼のことを思い出せば、同時にその罪の記憶が鮮明によみがえる。感触、一瞬一瞬の映像、肉体が損傷するときの音、消え入るようなうめき声、猛烈な動揺。この記憶は一生消えることはないだろう。たとえ本当に悔い改めることができたとしても、どうしても消し去ることができないのである。それが罪である。罪の認識がなくなろうとも、罪の感覚は脳裏に残っている。私は罪を背負いながら生きなければならなくなった。己の傲慢を挫き、謙虚に、控え目に、隠れるように生きなければならないと自分に強制した。そうすれば、罪がやわらぐような気がしたからである。私はどれだけ誠実に生きたとしても、罪深い存在なのである。だからこそ、出来る限りの誠実を実行しなければならないのである。私の悔い改めの日々は始まったばかりなのである…

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No title

Wer sich selbst verachtet, achtet sich doch immer noch dabei als Verächter.
自分自身を軽蔑する者も、やはり常にその際なお軽蔑者として自分を尊敬する。
―― フリードリヒ・ニーチェ

それは言わない約束ですよねぇ。
逃げ道をふさぐなぁ、ニーチェはw。

No title

こんにちは。しばらくご無沙汰しておりました。

たいていの大人は、どれほど酷いことをしても、見聞きしても、
なぜか、痛みのひとつも感じないで生きているものですが、
hajimeさんの、compassionateな人間性は貴重だと思います。
罪を罪として自覚できるのは、他者の痛みが心に刻まれるからであり、
人間というものの負の側面への、洞察が始まったからでしょう。

罪による傷は、(加害者であれ被害者であれ)深刻なものです。
時とともに癒されるどころか、増幅することさえあります。
わたしはまもなく、生きて半世紀になるところですが、
若いころの罪や汚点を癒すことは、到底かないません。
安直な「愛」や「ゆるし」で、気を紛らわせる人もいますが、
事実を消すことはできないからです。私にできることはただ、
自分の十字架を担って、最後まで身を低く生きることです。

しかしそれでも、罪悪感に負けて絶望しないでください。
長い間、生きながら地獄に堕ちたような苦しさが続くとしても、
辛苦に耐えぬく力も、かならず培うことができるからです。
どうか理想を手放さず、善にも強く、悪にも強くなってください。

贖罪の方法はいくつもあると思いますが、
直接本人にするもののほかにも、他の人々への奉仕、
とりわけ抑圧された、不幸な人々への理解や助力を通して、
自分自身の罪を、克服してゆくことは可能だと思います。

それに具体的に起きた加害と被害の状況についても、
より広い、社会的、歴史的な視点から俯瞰してみてください。
原因は本当に、あなた自身の子どもっぽい過信や慢心、
あるいは利己心や無思慮だけだったのでしょうか?
相手にも非があったのでは?という意味ではなく、
罪の全体像を知ることは、罪を克服する上で大切だからです。
罪とは決して、単純に個人の心の問題に押し込めて、
自分を責めたり、人を許したりするゲームではないからです。

なんだかとても重苦しいことを書いてしまいましたが、
わたしにしても、悩める方々に助言できるような人間ではなく、
しかし見過ごすべきではないと感じて、書かせていただきました。

どうかあなたの心のなかに、長い苦闘を通してでしょうが、
極端に分離した想いではなく、光と闇の調和が生まれますように。

失礼いたしました。

青梗菜さんへ


こんばんは。コメントありがとうございます。

ニーチェの鋭い指摘・批判は私たち発言者にとって非常に過酷です。私の思想などニーチェにとって取るに足らないものに違いなく、その対象にもならないでしょう。こういえば、自分を尊敬する軽蔑者となるわけですが、その対象になりうるということはかえって私を励ますようにも思えます。

ニーチェの言葉という本が少し前に流行りましたが、ニーチェの言葉は扱うには非常に都合がいいと言えそうです。扱い次第というところでしょうか…
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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