報じられない真の善意の顔を求めて


人物の心が、その人物を通じてあらわされる美徳に(つくなくとも見た目では)参与していないという事実には、その美的価値はべつにして、心理学上の真実とはいえないまでも、すくなくとも俗にいう人相学上の真実が認められるかもしれない。のちに私は、人生の随所で、たとえば修道院などで真の聖人というべき活動的慈愛の化身にずいぶんめぐり逢ったが、その人たちはたいてい忙しい外科医のような、快活で、実際家らしい、無関心な、つっけんどんな表情をしていた。それは人間の苦痛を前にいかなる憐憫も同情もあらわさない顔であり、人の苦痛を傷つけるのをすこしも怖れない顔であるが、その優しさを欠いた、感じの悪い、だが崇高きわまりない顔こそ、真の善意の顔なのである。   『失われた時を求めて』 プルースト作


イケメンが取り沙汰される時代になって久しい。これは資本主義、ひいては商業主義と深く関係している。その時代その時代によってイケメン像は異なり、社会の変化とともに変遷をたどっているはずである。ゆえにそれを研究することは意味のないことではなさそうだ。僕は所謂イケメン、その象徴ともいうべきジャニーズ系が好きではない。毒にも薬にもならない連中の集まりにしか見えない。明らかにある傾向を持っていることも釈然としない。くりくりした愛らしい目、すっきりと鼻筋が通り、ほっそりとした顎…。ジャニーズのみならず、いわゆる美しさ、かっこよさというものは作為的に生み出されている側面がある。そこには資本主義の根幹の商売および広告、時代や歴史、あるいは人種問題まで関係が及んでいる。その一方で僕らは真の善意の顔というもののある一定のイメージすら持っていない。これは哀しむべき事実である。ニュースにしろ広告にしろ、犯罪者や運動能力の高い人物、自分を商品として売っている品のない芸能人などを私たちに伝える。テレビや新聞・雑誌に真の善意の顔が映ったり、載ったりすることはごくごくまれである。そんな世の中ではあるけれども、僕はなんとか経験に基づく統計によって真の善意の顔とはどのようなものか、というイメージを形成していくため常日頃努力している。絶対にその傾向のようなものはあるはずだと信じている。たとえば額が高いと知力に富んでいるといわれるように。だから多くの人の話を聴き、多くの人と実際に会ってみるということは効果的だと考えている。もっともその取捨選択が重要であり、その基準としてイメージが要求されるわけで、簡単ではない。今回取り上げた、『失われた時を求めて』の一節は信頼のある大いに参考として役立つのではあるまいか。

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耳年増とまた言われてみたい

こんばんは。以前も書いたかもしれませんがオスカーワイルドの名言

 「ものごとを外観によって判断しないのは、浅薄だ,この世の真の神秘は目に見えるものであって、目に見えないものではないのだ」

かつてスーザン・ソンターグはこのワイルドのことばを手にとって『反解釈』という概念を定義します。

“解釈”という日本語がなにを意味するか,そこに抱くイメージは,ひとそれぞれですが,対義語は,感受性かもしれません
反解釈というのは,感性の尊重です。
しかも,もっともだいじなことは,ここが,ジツはソンターグの近代性でもあるわけですが
その感性は,受動的ではない,能動的感性ということだ,と,言っていいでしょう。

ワイルドがいったことは,実は,ブッダの,その経典のなかの最初期に言った素朴なことば,
「わたしを,眼(すがた)や耳(聲音)でさがしてもみつからない」
ということばの表裏にあることばで,しかも同じことをいっています。
共通するのは主体です。
自覺と發心,つまり自分の基準を持ち,じぶんで「ものごとの外観」に価値を見出し,自分で価値の“基準”をつくりなさい,ということです,
自覚し,自発して,自ら“仏ごころ”を発しなさい。それがすなわち,わたし(ブッダ)の姿なんだ,ということです,
主体はあくまで自分です。

それが「自我」の深い意味です。
「自」と「我」は同じではない,自とは「~より」という中国語でfrom,since,あるいはつまり「我より」という意味です,
日本人が使う「自我」ということばに,わかりにくさや混乱があるのはそこだと,いつも思うのですが。漢語をきちんとものにできていないのに使っているからです。
「自」には,このほかにも由,つまりreason,とか,はじめ,origin,とかいろいろと深いいみがある。自の字源は“鼻”なんですね。

主体はあくまで自分です。

(しかし,ブッダはそのうえで万物流転を説く,物事には絶対のものなどない,すべて相対,“相”でしかないのだ,だから相,としてみなさい。といいます,「如是観」ですね。
「如是観」には主体と客体,絶対と相対,特殊と普遍,ものごとの関係性や,“神”性と人性”のとらえ方の一切があります。)

おそらく“受動的感性” の大衆はスリコミされやすい,ということでもありますね。アマゾンの『この本を買ったひとはこれを買っている』から,『イケメンとはこういう顏です』にいたるまで,そこには自分の基準,というものがない。
商いというものの本質すべてを否定するのはオロカですが,個性を殺すことでなりたつ商売には,背を向ける必要があります。

話は変わりますがHajimeさんは年上にもてますねw

わたしは若い頃,よくナマイキだとか,「耳年増」(いまじゃただの年増ですが)といわれ,すこし年上にはきらわれましたが。すごく年上には逆にずいぶん気に入られかわいがられました。同世代とはなしがあったことはまずありませんでしたよ。
しかし
「“若いころ”に年上にモテる」
ということは悪いことではない,若くなくなってしまってからではゼッタイに手に入らない資産なんですからw。
「若い」の定義がいくつかはひとによってちがいますが,30も上のスゴイ年寄りにとっては20代は「若い」です。

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Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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