国公立大学を出ていない者は馬鹿である


先日の記事で僕は世間に別れを告げた。世間とはなんだったか、僕にとってそれは世間を構成する大半の馬鹿のことであり、僕の知能を最低とし、これに満たないものを馬鹿と呼ぶ。なぜ、世間の大半が馬鹿なのか、これを証明することは難しいが、前回世間に失望したことを書いたのでそこから導き得るとは思う。だが、ここにもう一度僕の言う馬鹿の定義を示したい。

簡単なのはやはり学歴で計るという方法だろう。学歴社会を批判する声も多く、根強いがそもそも学校というのがなぜ存在するのかを考えてみれば、批判こそナンセンスだということも分かるだろう。僕はもう、一般論は書かないし、細かい説明も省くことにする。これからは僕よりも圧倒的な知性のある”天才”と出会うきっかけづくりのためにこのブログを運営していこうと思う。僕の唯一の夢、それは圧倒的な”天才”に生きているうちに出会うということだ。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン、フィンセント・ファン・ゴッホ、ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、ジャン・ジャック・ルソー、夏目漱石などの天才だ。普通に生きていたら存在しているはずの生きている彼らに会うことなく命を終えなければならないだろう。僕はその運命に抗いたいと思う。

さて、馬鹿の定義に戻ると、端的に言って、「国公立大学を出ていない者は馬鹿である」(「旧帝大」と言ってもよかったが、例外を考慮して「国公立大学」とした。)、あらゆることに例外はあり、またこれが馬鹿の定義であることも注意してほしい。”国公立大学を出ている者は馬鹿ではない”ということにはならないのだ。あくまで消去法として、国公立大学を出ていない者は馬鹿だといっているのである。先ほど言ったように、これは僕を基準にしており、そうするとどう考えても国公立大学は行けて当たり前だ。所謂勉強なんぞしなくても論理的な考えができれば、「国公立大学」に行くことはたやすい。一般的には、人並み以上の努力が必要だと思われているが、知性の内でももっとも単純な論理的思考が身についていれば行ける。断言する。国公立大学に行けなかった者はその論理的思考が欠けている馬鹿だと思った方がいい。とにかく、世間の人々は自分が馬鹿だということに気づき、自分を馬鹿だと思わなくっちゃならない。そこから初めて、「無知の知」のように、「考える人」足り得るのである。

少なくとも僕にとってこの条件を満たさない者は論理的思考を持たない馬鹿なのである。論理的思考は本当に必要か?社会は論理的思考の積み重ねによって成立していることからその必要性は明らかである。

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No title

大学の入試くらいでは、
たいして論理的思考は問われませんけどね~。
でも、おもしろいなぁ。
意図を感じますよっ!w

国公立大学に行けなかった者はその論理的思考が欠けている、
その発想自体が、論理的思考を欠く者に固有のものかもしれない。
僕は、この切り返しをもって、論理的思考と呼んでみるけど、
いかが?w

No title

hajimeさん、こんにちは~。
真正面から行きます。
読み手を煽ってるのを承知で、煽られてみますw。

誰からも反論されないことを書いても仕方がないのと同様に、
誰からも反論されるようなことに、反論しても仕方がありません。
例えば、
大学卒業時点の知能を、知能として固定させ、その後に獲得した知能を考慮しないのはおかしい。
大学卒業を、知能のゴールとすることに根拠はなく、
逆に、僕ならスタートと捉える。
なんてふうな、小さな反論を積み重ねても仕方がないと思います。
なので、もっと根っこの問題から行きます。

>馬鹿の定義に戻ると、端的に言って、「国公立大学を出ていない者は馬鹿である」
そう定義した以上、その後に続く論理というのは、定義の外に出られません。

論理というのは本来、同語反復であって新発見を導くわけではありません。
ってことは、論理的に解ける問題なら、
すべて問いの中に答が隠されています。
だからこそ、論理的な考えができれば、国公立大学に行くことはたやすい、ということになるのでしょう。

馬鹿とは何か、
それは、まだ答のない問いです。
馬鹿を定義することが哲学です。

では、「国公立大学を出ていない者は馬鹿である思想」は、
哲学を持たない思想、そんな評価になります。
哲学的思考を持たない論理を、馬鹿と呼ぶ立場もありますよ~。

前提の間違いは、結論に現れます。
「国公立大学を出ていない者は馬鹿である思想」をどこまで展開させても、
僕には、無意味です。
基礎がありません。

馬鹿とは何か、利口とは何か、形而上学的なそれを考えるのが哲学、
馬鹿の答は出ているので、馬鹿にならないためには、馬鹿と関わらないためには、どうすればいいか、その方法を説くのが思想。
圧倒的な知性のある天才は、思想からは現れません。
答を自明として、疑わないのですから。

ダ・ヴィンチ、ベートーヴェン、ゴッホ、ゲーテ、ルソー、夏目漱石、
そんな評価の定まって久しい人たちが天才なら、一生天才とは出会えません。
では、天才と出会うということは、自分で、天才を発見することです。
天才とされている人の、新たな天才を見つけるのでもいい。
いずれにしても、大事なことは、自分で見つけることです。
それは、うれしいことに、自分の中に、天才を見つけるのとほとんど同義です。
論理的思考からは、絶対に見つけられませんよ!
論理は循環するだけで、新発見が期待できないのですから。

No title

考える、ってことは難しいことで、
世間を構成する大半が馬鹿だとしても、
僕が考えたことについて、僕は、
世間の承認を、つまり、馬鹿の承認を得たいと思うわけです。
馬鹿どもの保証を求めるわけですね。

この記事に対して、
hajimeさんが世間から総攻撃を受けたとして、
この記事が利口になるか、といえばそうでもなくて、
馬鹿どもは、馬鹿も利口も担保しないわけです。
自分の考えの妥当性を、
つまり、自分の馬鹿さ加減と、利口さ加減を、
自分は何で知るのだろう、
なんてところで、結びます。

反論を煽っている記事ということは、
最初から分かってますから、
ちょっと外したことばかり書きましたw。
以上っ。

青梗菜さんへ

コメントありがとうございました。

まず申し上げたいのはこの記事は反論を得るため、またそれを煽る意図をもって書いたのではないということです。
その目的は、無知の知、己が馬鹿であるということを世間の多くの人が認識するためにはどうしたらいいのか?その一つの根拠として、青梗菜さんがおっしゃる通り、「1+1=2」であるという認識を理解することが大学入試で求められることであるという見解から大学入試で一定のレベル(私自身が理解のできる許容範囲)に満たないことはすなわちこの等式を理解できない、馬鹿であると結論しました。

>大学卒業時点の知能を、知能として固定させ、その後に獲得した知能を考慮しないのはおかしい。 大学卒業を、知能のゴールとすることに根拠はなく、 逆に、僕ならスタートと捉える。
スタートは生れた瞬間からであり、人にはそれぞれ特性があると考えているので、大学に入る時点での国公立とそれ以外という差は特性によるもので、「1+1=2」を理解するという点において劣っていると言えるのです。何もしなくても国公立に行ける人間といけない人間が存在するという意味です。完璧な人間などいない、という理論と同じでしょうか、これを逆の言い方をすると反論を受けるわけです。

また、始めに断っているとおり、世間の馬鹿のために書いている記事ではないので、僕が期待したのはどちらかと言えば、肯定的、かつより厳しい条件や見方、あるいは定義であり、己が馬鹿であると気付かせるために書いたのと同時に、僕にとっての天才を定めるという意味もありました。僕が欲している天才はどのようなものか?「圧倒的な天才」としか表現できない、つまり僕が思い浮かべうるものではその天才像足り得ないわけです、ただ、その天才像が持ちえない要素、すなわち僕が定義し得る「馬鹿」をまず順番に並べてみようという考えに至ったわけです。これらが僕が記事を書いた意図であります。

青梗菜さんにうかがいたい、論理以外にどのような方法があるのでしょう。

僕は前回の記事から、世間の承認や保証は求めていません。ただ考えるきっかけになり、僕にとって”これは”と思える何かアクションが欲しいのです。相対性の中にあって立場を取らないことには何も始まりません。自分が馬鹿だということを認めず、その馬鹿さを誤魔化すために相対性を利用する人が多く、世の中は馬鹿で学ばない人が多くなりました。僕はそう感じています。

No title

大学までは、お勉強でね、
正解は、常に、外側にあったわけです。
外側の答を言い当てることで、
先生とか親とか、外側からほめてもらえたわけです。
考える、ってことは不要でした。
逆に、考えてはいけない。
考える、ってことは、オリジナルの答を探しに行くことでしょう?
外側に正解があるのに、内側でオリジナルの答を作り出しても、
そんなのは、間違いに決まってます。

No title

お勉強を離れると、
つまり、学校を卒業すると、
論理で答が見えてくるようなことがらは、
問いにもなりません。
形而上の問いのほとんどは、
論理が届かないことばかりではありませんか?

僕は、論理的であることを、
馬鹿を測る物差しにはしないなぁ。
高卒だからなぁw。

それよりも、馬鹿呼ばわりされても、
まったく平気で、
むしろ、誇りに思うときもあるくらい。
世の中が馬鹿の集まりなら、
そこから外れてるほうが利口ってことになる。
馬鹿と言われても、外れることを選びますよ。

No title

論理は、既成の世の中にあるものでしょう?
馬鹿でも理解可能なもので、
世の中が馬鹿で構成されているのなら、
馬鹿の公約数みたいなものですよ。
そんなもの、これから天才に出会おうとしているhajimeさんが、
こだわるものではありません。

No title

読み返してみて、分かり合えそうにないですね。

国公立大学を出ていない者は馬鹿である、
はい、それでいいと思います。
国公立大学を権威として、自己より劣る者を馬鹿にする、
フロムなら、権威主義的パーソナリティの適例とするでしょうか。
でも、多様な考えがあっていいはずです。

加えて、ニーチェやルソーは、読み手によっては、
ファシズムや全体主義と親近性を持つので、
国公立大学を出ていない者は馬鹿である、
それは、ファッショな理解ではないかと気になります。
でも、そんなのも、高卒の馬鹿の感想ですから切り捨ててもいいと思いますし、
hajimeさんのほうが、高卒の馬鹿よりは正しい解釈をしていると思います。
国公立大卒には、高卒の馬鹿には分からない高度な論理があり、
僕の規矩は届かないのでしょう。
もとより、僕は論理的思考を持たない馬鹿でしたから、
hajimeさんにとっては、論理でさえなかったはずです。
論理でhajimeさんに勝てるわけがありません。

最後に、
ゲーテをほんとうにいいと思ってますか?
単純に、権威に従ってませんか?
僕なら、スピッツの草野さんのほうがいいし、
筒井康隆のほうが好きなのですけど。
高卒の低俗な嗜好で恥ずかしいですけどね~w。
くだらないことしか書けなくてすみません。

>自分が馬鹿だということに気づき、
>自分を馬鹿だと思わなくっちゃならない。
はい、常にそう思っています。
その分、hajimeさんは、
自分が利口だということに気づき、
自分を利口だと思わなくっちゃなりません。
益々のご活躍を!

お元気で!

青梗菜さんへ


コメントありがとうございます。

とりあえず「馬鹿」はKが三四郎に言ったようにその内奥には期待が込められているわけです。それに「例外」を寛容に許しているわけですからファッショではないかと、それに陥らないように注意もしているつもりであります。

高卒である理由を聞かずに馬鹿呼ばわりするつもりはありませんし、時代や家庭環境など様々な影響もあるでしょうから、ある意味で誰にも当てはまらない、一般論風の持論であります。

ゲーテについて、女性に対する感性が好きではありません。ファウストはあまり好んでないです、しかしエッカーマン著「げーてとの対話」で繰り広げられる芸術論や人生観は素晴らしいものがあって、その欠点を補って余りあるほどです。
たしかにこうした好みによって相容れない部分はあるに違いありませんが、手段がなんであれ、結局媒体が変わるだけで、真理を求める姿勢は変わらない、そういう人であれば僕は馬鹿呼ばわりするつもりはありません。
筒井康隆はまったく読みませんが、これも食わず嫌いと言えるでしょう。けれど、僕の感覚ではどう考えてもドストエフスキーの方が読んでいて気持ちがいいのです。時の流れの淘汰を免れたという権威に従っているのかもしれません…

利口だったらとっくに生きる道を見いだせていることでしょう、けれど僕は全然見いだせずにいる。けれど見いだそうとする姿は馬鹿にはできないのではないでしょうか。

はじめまして~、こんにちは♪

hajimeさんは仰る。
ゲーテについて気に入らない部分はある。

だけれどゲーテを天才の枠に嵌めている。
つまり圧倒的な天才にも気に入らない部分はある。
ということになります。

hajimeさんが定義する「馬鹿」に附随するhajimeさんが気に入らない部分は、hajimeさんが定義した「馬鹿」であり、定義した馬鹿のそこだけを注視している限り馬鹿の中に潜んでいるかも知れない天才の部分には気付けないでしょう。
人は複合的な要素を多分に含んでいるのだから、
論理的にはただ単に「hajimeは自分の定義した馬鹿の馬鹿の部分だけを見る」ということになりますw

自分が得意な要素だけを基盤として人を判断することは、己れを他者に「馬鹿」だと判断させることに繋がると再認識しました。その点で良い記事だと思います♪
論理的思考以外では「hajime」を判断してはいけない…とご自分で定義していることになるのですよ♪ hajimeさんが論理的思考をしない時、「hajime」はhajimeさんが定義した「馬鹿」になりますw

ルサンチマンが収まらないのはhajimeさんも同じなのですね(笑)
この記事は『地下室の手記』の矮小劣化版ですな♪
あ、これを言っておかないと…
私は高卒です♪
それでは~♪

小奈鳩ユウさんへ


はじめまして。コメントありがとうございます。

言葉の定義は難しいですね。それは記事を書いていると本当に痛感します。
圧倒的天才と完璧人間とは全く違います。完璧な人間など存在しないというのが僕の考えですので、天才でも欠点はある、それを天才と呼んでしまっているのはよくなかったです。すみません。

その通りで、馬鹿のなかにある天才には気づくことができません。しかし、僕が自分が天才として敬う人物に求める最低条件が国公立大学を出ているということでして、どんな天才でも国公立大学に行けるだけの論理的思考を欠いているとしたらなんだ、1+1=2を認識としてだけでも理解することはできないのか、となってしまって尊敬の念が損なわれてしまうのです。一般論ではなく、僕にとっての天才の定義なのでいわゆる世間の方にはどうでもいいことなのです。

良い記事だと評価していただいたのはとても嬉しく思います。得意な要素というよりは、一般的に客観として判断できる基準が教育制度にあると思い、偏差値、という値もあるわけですから、定義に持ち出してみただけです。僕が国公立大出身者であるか否かということはあまり意味のないことではあります。だからそのことについて僕は言及していませんし、言及もしません。真意を損ねるからです。同時に、僕が「馬鹿」であるか、否かもどっちでもいいことです。「馬鹿」でなければこんな記事は書きません、それは認めます。「馬鹿」を承知で僕がなにをやりたいのか、その真意をどうかくみ取っていただきたいです。

人間それぞれ、大きな違いはないでしょうから、ルサンチマンが収まらないというところもあるでしょう。
『地下室の手記』を彷彿とさせますでしょうか?今までいただいたコメントの中で最も嬉しいお褒めの言葉です。
もっとも、その矮小劣化版ということですが。それでも、ドストエフスキーは好きな作家でありますから、光栄です。
今後も、矮小劣化版『地下室の手記』が少しでもオリジナル『地下室の手記』に近づくよう精進致します。
もし、返事をいただけるのでしたら、上の新しい記事をお読みいただいた上で、していただけたらとても嬉しく思います。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

No title

馬鹿の定義、ですかぁ~。
とりあえず、馬鹿、は、よくないもの、ですかね。
文句ですもんね。基本は。

私の場合ですけど、「馬鹿」にジャンルがあります。
良い馬鹿は、とりあえずのけといて、
悪い方の馬鹿、に関しては、
学力はとりあえず判断の基準にはしないかなぁ。
人を不快にさせる人に対して、
この人は馬鹿なんだな、って思います。
論理的思考ができる人は、人を不快にさせないはずですけど、
そうでもないのがむつかしいところです。
意図的に人を不快にさせてるのなら、
馬鹿ではないのかな。
人を不快にさせることに意味がある場合。

馬鹿、の定義は、みんなバラバラっぽいですね!
私が言ってることは、きっと一般論寄りでしょうね!

プラトニックまいまいさんへ


コメントありがとうございました。

人を不快にさせる人を「馬鹿」、いいですね。けれど、それは主観ですからなかなか一般に当てはめることが難しそうです。その点、学力は一つの物差しとして使えると思います。「馬鹿」をこれだ、と一つに定めるというのは不可能ですし、そもそも言葉とはそういうものではないと思います。

論理的思考ができることと人を不快にさせないということは、直接結びつくものではないと思います。仮に、わたしの記事のことを不快にさせる行為だと解釈しているのでしたら、間違いではないですが、読み手の自己否定の契機となるように意図して記事を書いたので、不快ではなくあくまで自己否定です。自己否定することは不快を伴うのかもしれませんが、自己否定することに不快を覚える人間は成長がないかもしれません。
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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