霊肉の栄養となる「技倆」


君は、われわれの生活費以上莫大な金をもうけてもその銭は大したものではないということを心得ねばならぬ。つまり銭をふんだんに有っていても、君はそれを使いつくすわけにはゆかず、従って君のものではない、使えない財産はすべて一様にわれわれのものであって、君が自分の生活に役に立たないほど儲けてもそれは悉く君の意のままにならぬ他人の掌に握られている〔も同様な〕のである。しかし二つの遠近法の理論によって研究しよく推敲するならば、君は銭よりも偉大な名誉を賦与する作品を残すことになるだろう。けだしそれのみがひとり名誉なのであって、銭を有っている人はそうではない。そういう人はしょっちゅう嫉妬羨望の的、泥棒のねらいの的となり、その生命といっしょに富豪の名声も消え去り、財宝の名はのこるが、財をためた人の名はのこらない。人間の技倆の名誉はかれらの財宝のそれよりはるかに偉大な光栄である。いかに数多の皇帝やいかに数多の王侯が何の記憶ものこさずに過ぎ去ったことだろう!かれらは自己の名を残さんがたまに、一途に豪壮な生活と富とを求めたのである。技倆をゆたかならしめんがために銭の足りない生活をおくった人がいかにたくさん居ったことであろう!技倆がかの富にまさればまさるほどかかる願望は、金持よりも芸術の名人の遂げるところとなるものだ。君は財宝というものが科学のようにそれ自身で金をためた人の名を死後まで揚げるものでないことを知らないのか。科学こそ永遠にそれを創った人の証拠となりラッパとなる、けだしそれは、銭のように、継子ではなくて、それを生んだ人の娘だからである。

また、もし君がその財貨によれば食欲や色欲をよりよく満足さすことができるが、技倆ではだめだというなら、他の畜生同然、もっぱら汚らわしい肉体的欲望に仕えてきた他人のことをつくづく考えてみたまえ。一体かれらのどんな名が残るだろうか?もし君が生活の必要とたたかわねばならぬために研究したり自分を本当に立派な人間にする余裕がないと弁解するならば、それは君自身に罪を着せることにほかならない。けだし技倆の研究のみが霊肉の栄養だからだ。富家に生まれながら、財宝によって汚されないため、自ら財宝と縁を断った哲学者がどんなに多いことであろう!

またもしも子供を扶養する必要があるからと弁解するなら、子供たちにはわずかなもので十分なのだから、忠実なる富である技倆を滋養となるようにするがいい。何故かなら技倆は、死なないかぎり、われわれを見捨て去ることがないのである。そしてもしも君が老後の年金にするよう、予め一定の貨幣資本をこしらえておきたいというなら、この研究は絶対に着手されないだろうし、君を老熟させることもなく、技倆の容器〔たる頭〕は夢とむなしい希望でいっぱいになってしまうであろう。   『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』より


レオナルド・ダ・ヴィンチはルネサンス期の人物なので、ずいぶん昔に生きていた人である。今とは全然違う世界で生きていた人の言葉がはたして現代に生きる僕たちにとって有用なのであろうか?多くの人はひょっとしたらそのように感じるかもしれない。しかし、このレオナルド・ダ・ヴィンチは遥かに時代を先取りしていた。いや、自然をはじめとする事象をよく観察し、論理的に考察することができた。ただただこのことに尽きるように思う。天才とは迷いや惑いのない人間のことなのかもしれない。レオナルドは歴史上において圧倒的存在感を示している。

この論の中で、彼は「技倆」を重要視している。そして僕は「技倆」の向上を伴う「仕事」をやるべきだと思う、そして僕自身そういった仕事をやりたい。だが、今の仕事からは残念ながら霊肉の栄養となるような「技倆」を期待することは難しそうだ。しかも、明確に示されているわけではないのだが、一定の期間が設けられた仕事であり、その期間を終えた後にどのような形態の仕事となっているかは見当もつかない。もしかするとそこでひと段落ということになってしまえば向上した「技倆」も役に立たず、ということになる。それを活かした仕事に就く、あるいは考えるということもできるだろうが、そもそもがお金になるような仕事ではないので、現実的な生活を考えたときにはたして、という不安は拭い去ることができない。つまり、この「技倆」そのものが限定的なものであり、霊肉の栄養となりうる「技倆」を求め、その末に仕事と結びつけるという努力をしなければならないということになる。それは絵画を描く技術であったり、自然科学の学問的知識、あるいは研究ノウハウであるのかもしれない。ここでは導き、発見した理論であったりもしている。さて、こうしたものを眼前にしたときに痛感するのは、僕が年老いた人間であるということである。僕が身を入れてしてきたことといえば、読書とブログの執筆、幸福の探求くらいのもので、これらが「技倆」と呼べるかどうか疑わしい。科学と芸術、どっちつかずのものが「文学」であり「宗教」ではあるまいか?読書とブログの執筆は「文学的活動」であり、幸福の探求は「宗教的活動」に過ぎないではないか。たしかに、レオナルドが求めたような名声を僕は期待していないし望んでもいない。けれども、生きる意味、生きる意欲を見出すには最もいい材料であるかもしれない。「人生は退屈である」、これは「美」や「名声」を求めぬがゆえに引き出された真理ではあるまいか。

「人生は退屈である」、私利私欲を去ったとき直面するのがこの問題ではないか?退屈を超越したところが無心や悟りということか?けれども、こうして文章を起しているときはたぶん楽しい。楽しんでいる。できることなら、この文章が他の人にとっての退屈しのぎ程度のものになってくれればいいと、そんなことを考えた。暇つぶしで精神が向上するならばすばらしいことではないか。引用している言葉、注目している思想には自信がある。あとは僕の言葉次第、「技倆」次第なのだ。

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文章を書くことはあらゆる技倆の基礎である,とでもいっておきましょうか

「人生は退屈である」,だれも強要することが出来ない境地ですね!

・・・・
前回のコメント,わたしは “強要される”危険,という限定で書いたつもりでした。それは労働とは言わない。危険な仕事でも強要されるものでないなら,あえてわが身を捨てても,ということであるならそれは尊いことだとおもいます,とはいえ死が美談となっては,それは亦違う,ともおもいますが。

同じようにどんな精神生活も,強迫観念と強制だけはいけませんよね。
このごろ日本は “同調圧力” が,度を過ぎている氣がします・・・・。
自由の喪失は緩やかな傾斜をゆっくりころがっていくようです

前回書かれてたtabilaboとかゆうの,覗いてみました。
ある種,ソフィステイケートされた同調圧力装置のひとつでしょうね

技量と技倆のちがいは
技倆は伎倆,人がすでに手にしているワザのすべて,本領,という意味なんです!いいことばですね。とりとめなくなりましたが・・・お返事は気がむいたらでけっこうですよ
雑談です。

玄さんへ

こんばんは。

実は今朝コメントを確認しまして、技量と技倆の違いをご教示いただこうと思っていたのですが気を利かせてくださったのですね、ありがとうございます。

玄さん、さすがですね。岩波文庫の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』は旧字体が多く使われていますが、便宜上新字体に変えています。けれども、どうしても「技量」と「技倆」は違うな、と感じたので敢えてそのままにしました。とはいえ、はっきりとした違いを理解はしていなかったので、教えていただけてとてもありがたいです。
人がすでに手にしているワザのすべて、ですか。”文章を書くことはあらゆる技倆の基礎である”、とてもいいですね。もっと真剣に、真面目に文章を書かなければいけないなと思いました。文章は誰にでも書ける、だからこそしっかりとした技術がなければその言葉に力や響きが宿らないでしょう。

ツイッターにしてもくだらないものや独りよがり、偏見、偏狭なツイートが多く見受けられ、それらが意想外に支持されていたりして、これは難しい時代だなとよく思います。

>”強要される”危険
強要されるというのは、とても微妙なニュアンスを含みますね。圧力がある時点で強要ともいえそうですが。
同調圧力を感じないほどに、政治などは強行されているという感覚を持ちます。

しかしながら、こうして文章を書いて玄さんに見られていると自分の無知や浅はかさを露呈してなんとも恥ずかしいかぎりなのですが、知らずは一生の恥ですし、それが事実なので隠しても仕様がないということで開き直っています。誤りや、気になる点がありましたらぜひご指摘ください。

いつもありがとうございます。

カンシおばさん

とんでもないです,丁寧に返していただいて恐縮です。ほとんどの人は気にも留めないどーでもいい細かいことをいちいちつっこむヘンな人,くらいにおもって対処してくださいね,わたしはHajimeさんの文章がかもしだす,なんというか,シックな雰囲気が好きなんです^^では

玄さんへ

ひとが気にも留めないどーでもいいことにこそ、おもしろみや実相が表れていたりすると思いますので、さすがです。知識と理解力があるからこそ、細かいことが気になり、違和感を覚えるといえそうですし。

シックな雰囲気なんておっしゃっていただけて、とてもうれしいです。文章に表れる文体を、書きながら工夫したりして磨かなければいけないと思っているので、一定の味わいのようなものにつながるよい傾向と捉え、今後も努力します。

ありがとうございます。
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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