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私たちは隷従を強いられる 個人が国家的でなければならない

通常の人間は今日なお相変らずまず自分についての世評を期待し、またやがてはそれに本能的に屈服する。しかも、単に「よい」評判に対してのみでなく、わるい不当な評判に対しても全くそうである。

(中略)

虚栄的な者は自分について耳にするあらゆる好評について喜ぶと同じく、あらゆる悪評に心を悩ませる。彼はその双方に屈服し、自分のうちに突発して来るあの隷従という最も古い本能から、自分がその双方に屈伏していることを感じる。

(中略)

この奴隷が自分についての好評を誘き寄せようと努めるのだ。後になって直ちに、自分で呼び起こしたものでないかのようにこの好評の前に自ら跪くのもまた同様にこの奴隷なのだ。   『善悪の彼岸』より


私たちのほとんどは生れてからひたすら隷従を強いられる。親に隷従し、習慣に隷従し、社会のルールに隷従し、金持ちあるいは資本持ち(資本家というと、企業単位の大きなものになるためこのような表現にした)に隷従する。他にもあげればあるかもしれない。とにかくこのようにして卑屈になり、知恵の芽を摘まれ、自立し、自律するための牙を抜かれる。そしてやがては自分自身に隷従することになってしまう。非常に恐ろしいことだ。

この隷従から脱するためには、自らが国家的でなければならない。隷従するのは弱い証だ。その対象はすなわち強いものである。逆に言えば、正しい用い方をすれば守ってくれる胸壁となってくれる。私たちが隷従を余儀なくされているものは強く存立し続けるものであるから、私たちも国家的に強くならなければならない。国家的とは何か?国際社会における国家のように、現実社会の中で国家のような働きを自らで形成することである。家庭はある意味では国家であり、また僕自身、健全に国家的でなければならないと考えている。そしてそれをすすめて、自分自身が国家的である必要があると思うのだ。家庭の中にありながら国家的であることは、必ずしも矛盾しないし、齟齬を起こさない。個性、個人主義の時代と言われるのだから、言動だけでなく土台と立場もしっかりとしたものを確保しなければずるく卑怯だ。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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