恩恵について 「一日一善」ではなく「一日一施」


高利で恩を売るようなことがそれほど知られていなければ、恩知らずな行為ももっと少なくなるにちがいない。人は自分によいことをしてくれる者を愛する。これはまったく自然な感情だ。忘恩は人間の心には存在しない。しかし、そこには利害の念がある。だから、利害を考えて恩恵をほどこす者よりも、恩をうけてそれを忘れる者のほうが少ない。あなたが贈り物をわたしに売りつけようとすれば、わたしは値段をまけろと言うだろう。しかし、くれるようなふりをしていて、あとで高い値段で売りつけようとするなら、あなたは詐欺をはたらいているのだ。無償であればこそ贈り物にははかりしれないねうちがあるのだ。人の心は自分の掟のほかには掟をみとめない。人の心はつなぎとめようとすればはなれていき、自由にさせておけばつなぎとめられる。

漁夫が撒き餌をすると、魚はやってきて、警戒もせずにそのまわりを泳いでいる。しかし、餌の下に隠された針にひっかかって、糸がたぐられるのを感じると、魚は逃げだそうとする。漁夫は恩恵をほどこしているのだろうか。魚は恩知らずなのだろうか。恩人に忘れられた人がその恩人を忘れるようなことがあるだろうか。はんたいに、その人はいつも喜んで恩人のことを語り、恩人のことを考えるたびに感動せずにはいられない。たまたまなにか思いがけない奉仕をすることによってその人がしてくれたことを忘れないでいる証拠を見せる機会がみつかれば、どれほど大きな心の満足を感じながら感謝の念を示すことだろう。どんなに快い喜びをもって自分はだれであるかを知らせることだろう。どんなに大きな感激をもってその人に言うことだろう。やっとわたしの番になりました、と。これこそほんとうの自然の声だ。ほんとうの恩恵はけっして恩知らずをつくりはしなかった。   『エミール』より


教育の最大の誤り、多くの親切に隠された実態が示されている。

人間だから利害の念は生じるのはやむを得ないかもしれない。しかし、期待し、求めることをしないように努めなければならない。私たちが最も欲しているものはお金でも、利益でも、独占でも、得した気分でもない。他者によって与えられる愛なのだ。

恩を受けたら、それに報おうとする。いつか恩返しをしようと思う。そこに動機がうまれ、活力がうまれる。恩恵を施すことは計り知れないパワーと思いと意志を生む。一日一善という言葉があるが、もっと具体的に一日一施というのはどうだろうか。善いことをするというのは、やや独善に陥ってはいないか?施しをするというのは、必ず相手がある。他者に対する気持ちがあり、何か目に見えないエネルギーがその場に産出される。善行では生まれないものが、施しからは生れるような、そんな気はする。「善悪の彼岸」ではないけれど、「善」というのが難しくて、「善を行え」と言われても正直、難しい。でも、施しなさいならばどうだろう?力を貸す、与える、これは誰にでもできることだ。だが、条件はその相手がその施しを受ける態勢でいるかどうかということがある。誰でも彼でもというわけにはいかないだろう。それに、施しといっても、恩恵と呼べるものを施さなければならないのだから、ただ金をあげれば、あるいは余計なお世話をしろというのではない。自分が正しい恩恵を与えることができたかどうかは、しばらくしてからたまたま戻ってきて初めてわかるというものであるから、なかなか難しいかもしれない。だが「一日一施」の姿勢は悪くないのではないかと思う。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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