『哲学』とはなにか 『善の研究』より

主客の未だ分れざる独立自全の真実在は知情意を一にしたものである。真実在は普通に考えられているような冷静なる知識の対象ではない。我々の情意より成り立った者である。即ち単に存在ではなくして意味をもった者である。それでもしこの現実界から我々の情意を除き去ったならば、もはや具体的の事実ではなく、単に抽象的概念となる。物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく実際に存在するものではない。この点より見て、学者よりも芸術家の方が実在の真相に達している。我々の見る者聞く者の中に皆我々の個性を含んでいる。同一の意識といっても決して真に同一でない。たとえば同一の牛を見るにしても、農夫、動物学者、美術家に由りて各その心象が異なっておらねばならぬ。同一の景色でも自分の心持に由って鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして悲しく見ゆることもある。仏教などにて自分の心持次第にてこの世界が天堂ともなり地獄ともなるというが如く、つまり我々の世は我々の情意を本として組み立てられたものである。いかに純知識の対象なる客観的世界であるといっても、この関係を免れることはできぬ。   『善の研究』 西田幾多郎著より


『哲学』や『思想」というワードは一般受けしない。忌まわしいという気持ちを起こさせるらしい。確かに日常において『哲学』に触れる機会というのが自然に与えられるということはない。そうした機会を与えるという意味でも大きな役割を担っている義務教育の中に『哲学』が含まれていないのは非常に疑問であり、違和感を覚える。国家はいろんな意味での「戦士」を育成することしか考えていないのではないか?と思えなくもない。国益をもたらす人材のために教育機関がある、ということは以前にも書いた覚えがあるが、『哲学』では飯は食えないし、直接科学の発展をもたらすこともない。ゆえに『哲学』は重宝されず正しい価値評価もされることなくただ人から遠ざけられ、避けられる存在となってしまっている。実際は『哲学』は煩雑で無益な屁理屈なんかではないし、理論のこねくり回しでもない。ソクラテスが「善く生きること」といったように、「善く生きる」ための活動がすなわち『哲学』であり、『思索・思想』の動機なのだ。

富を得ること、金をたくさん稼ぐこと、名声を得ること、これらを人生の目的とすることはとても簡単で、わかりやすく、誰にでも悩むことなく生きる意味として受け入れることができる。だから多くの支持を得ている。生きるために必要なことと、生きる意味を混同しているのだが、合理的で理に適っているのかもしれない。生きるために必要なことと、生きる意味を区別したとき、はじめて『哲学』がうまれ、その効果が表れる。多くの人たちはこの二要素が不和を起こすことによる悩みを抱えている。『哲学』が救いの手になるべきところで、宗教がそっと優しく手を差し伸べることになる。

『哲学』の中には、必ず『宗教』が含まれ、語られる。特にこの箇所はわかりやすく思うので、取り上げてみた。

肉体的に生きるために必要なことが、衣食住であるならば、精神的に生きるために必要なものが『哲学』なのではないかと思う。『善の研究』を読みながら、肉体と精神というように区別していることはナンセンスなのかもしれないが……

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

無料メールマガジン
メルマガ購読・解除
 
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

twitter
月別アーカイブ
最新トラックバック
最新記事
最新コメント
リンク
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる