人にしかできない仕事、できれば自分にしかできない仕事を持てるように努力し、人の手による仕事を正当に評価できるようになろう


どんな仕事もみな同じだというわけには行かない。見かけだけの仕事もある。つまり、単なる見かけが目的の仕事、または見かけだけのためにある仕事などである。たとえば、いわゆる「ご婦人がたの手芸」の一部分、特に以前によく見られた道楽半分の無意味な軍人生活、不充分で結局ものにならぬピアノの稽古のような「芸術」修行の大部分、狩猟その他のいわゆる「スポーツ」の大部分、それから自分の財産の単なる「管理」なども、要するにこれに属する。利口な活動的な人間なら、何かもう少し心の満足の得られる仕事を求めねばなるまい。

これがまた、なぜ機械を使用する仕事や、機械的で部分的な仕事が、総じて人を満足させること少なく、工場労働者に比べて、なぜ職人や農夫の方がはるかに多く満足を感じるか、ということの理由でもある。だから、社会的不安は、工場労働者によって初めて世に現われたのだ。工場労働者は、自分の労働の成果を見ることがあまりに少ない。仕事をするのは機械であって、彼はただこれに従属する道具にすぎない。あるいは、いつもただ小さな歯車か何かをつくる手伝いをするだけで、決して時計全体を作ることはない、しかも時計は楽しい芸術品で、人間らしい真実の仕事の成果なのに。このような機械的労働は、どんなつまらぬ者もみな持っている「人間の尊厳」の観念に反し、決してひとを満足させるものではない。

これに反して、我を忘れて自分の仕事に完全に没頭することのできる働きびとは、最も幸福である。たとえば、ある題材を得てこれを表現しようとする時、全精神をその対象に打ち込まずにはいられない芸術家や、自分の専門以外はほとんど何物も目に入らない学者や、いな、ときには最もせまい活動範囲に自己の小天地を築きあげている、いろんな種類の「変わり者」でさえ、この上なく幸福なのである。

彼等はすべて―客観的にいえばおそらく間違っているかもしれないが―仕事をしているのだ、真実の、有益な、社会のためになくてはならぬ仕事をしているので、決して遊戯にふけっているのではないのだ、と考えているのである。そればかりか、彼等の中には、このように不断の、骨の折れる、おそらくまた健康上もあまりよくない仕事をしながらも、非常な高齢に達する者も少なくない。ところが一方、なにも仕事をもたぬ貴族的な放蕩者や有閑夫人たち―現代社会の最も無用な、主義としてなるべく働くまいとする人種の、つい手近な例をあげたのだが―そういった連中は、たえず健康の修繕に追われているのである。

今日の社会ではまず第一に必要なことは、有益な仕事は、例外なく、すべての人々の心身の健康のために、従ってまた彼等の幸福のために、必要欠くべからざるものだ、という認識と経験とが広く世に普及することである。

以上のことから必然に次ぎのような結論が出てくる。すなわち、怠惰を業とする者はもはや優秀な「高い」階級とは認められず、その正体通りのもの、つまり、正しい処世の道を失った精神的に不完全な、不健康な人間とみなすべきである。こうした考え方が一度、社会全体のゆるがぬ確信の表現である風習となって現われるならば、そのとき初めて、この地上にも、より良い時代が到来するであろう。それまでは世界は、一方の人たちの過大の労働と、他方の人々の過小の働きとのために悩むのである。この両方は互いに因果をなして制約し合っているが、しかし、そのいずれが真実のところ、より不幸であるかははなはだ疑問である。

ところで、われわれのさらに疑問とするところは、この原則は、人類数千年来の経験に基づくものであり、また、誰もが働いたり働かなかったりして毎日自分でそれを試してみることができるし、その上、すべての宗教や哲学が常に教えることなのに、なぜそれが今なお広く世に行なわれないのか、ということである。たとえば、聖書を大いにありがたがっていながら、聖書にはさほど明らかに記されていない死刑をしごく熱心に弁護する一方、聖書のきわめて明白な命令にそむいて、もっとも全然働かないわけではないが、せいぜい一日くらい働いて、あとの六日は貴婦人業である怠惰のうちに日を送って、不思議なほど平気でいられる数千人の「貴夫人」たちがあるのは、なぜだろうか。こういうことになるのは、主に労働の分配と処理とが適当でないからで、そのために労働はしばしば、まったくの重荷となるのである。   『幸福論』 ヒルティ著より


労働についての自分なりの観念を形成するのに、この部分は非常に有益であるように思う。僕自身も学ぶところが大いにあった。人間にとって考えることが生命活動の根源的なものであるのと同じくらいに働くことは人間にとって欠くべからざるものである。ゆえに数文で説明がつくほど単純なものではないに違いないが、それでも自分の労働に対する考え方の誤りを正してくれるエッセンスが多く含まれていると思う。働くことを肯定しなくては始まらない。そのスタートに立たない人間は、人生の中で心の平衡をとることが難しくなるだろう。働くことは間違っているかもしれない、社会が間違っているかもしれない、そもそも人間が不完全な存在であるのかもしれない…けれども、現実の生活があって、多くの人間が労働し、悩み、誤った認識のもと労働を嫌悪している。そうした人たちに対して、「好きで働いているのだろう?自業自得さ」と横柄に構えていられるだろうか?

そして僕は労働から得られる幸福を一時的な感情だけのものでなく、納得に近い観念としての二次的な幸福まで考えたい。上にあげられた、芸術家や学者、変質者は人々の幸福、あるいは生活の向上のために働いていると言い切れるのだろうか?芸術はたしかに素晴らしい。科学の発展は人類にとってたいへんな恵みとなる。この種の変質者は…、少なくとも無害である。

さて、人間が仕事を厭うようになった一つの要因に、機械の道具になり下がったことをあげているが、この機械の導入は資本主義、いわゆる「儲け」を出そうとした結果である。労働は機械、その対価は機械ではなく管理者がせしめるというわけだ。どんどん仕事が人間の手から機械に移っていき、人々は仕事を失うか、機械の奴隷となってしまう。そうならないために、人にしかできない仕事、できれば自分にしかできない仕事を持てるように努力し、人の手による仕事を正当に評価できるようになろう。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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