理性の人 幸福は超感情的情感である


享楽主義者たるをも、イリュウジョンに没頭し得るロマンチストたるをも得なかった私には、如何にせばよき生が得らるるかが緊要な問題であり、また日々の空疎なる実生活が遣瀬なき苦悶であらねばならなかったし、現にあるのである。私は考えた。悶えた。而してどうしても人間の根本性情の発露に非んばよき生は得られないと思った。人性の曇らさるるところ、其所に憂鬱があり、倦怠がある。その発露の障害さるる所、其処に悲哀があり、寂愁がある。人性の燦として輝く所、其処に幸福があり、悦楽がある。人性の光輝を発揚せしめんとする所、其処に努力があり、希望がある。人性の内底に鏗鏘(こうそう)の音を傾聴する所、其処に漲る歓喜の声とともに詩は生れ、芸術は育つ。かるが故に我らは内面生活の貧弱と主観の空疎とを恐れねばならない。外界に対する感受性の麻痺を厭わねばならない。我らは徒に自然の前にひれ伏して恐れ縮んではならない。深き主観の奥底より、暖き息を吐き出して自然を柔かに包まねばならない。とは言うものの顧れば我らの主観の如何に空疎に外界の如何に雑駁なるよ。この中に処して蛆虫の如く喘ぎも掻くのが我らである。これをしも悲痛と言おう。されどされど悲痛と言う言葉の底には顫えるような喜びが萌してるではないか。悲痛に感じ得るものは充実せる生を開拓する大なる可能性を蔵してるという事は今の私には天堂の福音の如く響く。私はまだまだライフに絶望しない。冷たい傍観者ではあり得ない。   『愛と認識との出発』 倉田百三著より


「如何にすれば善き生が得られるか」などと考えるのは理性の人でなければあり得ない。理性の人とは感性や悟性から離れ、理性を第一の主体とする。通常、人間は肉体を備え、脳で全身をコントロールするようにつくられていると思われるから、感性が第一の主体でなければ自然的でない。感覚の心地よさを求め生きることが、人性に適った生き方というのが自然であり、尋常であると思う。しかし、中には悟性を第一の主体といる人もいるだろう。近年はこの悟性の人が増え、珍しいということもあって注目されているように思う。二次元に対して非常な関心を持ったり、スピリチュアルな世界について言動する人やあるいは、反社会的な多くの人間にもこの傾向が見えるような気がする。自然がつくるのとは異なる行動規範は悟性がつかさどっているように見える。感性に意味を持たせるのは悟性であり、感性は単に、物理的に感覚器官と対象物との相性が適合するとき心地よいという信号を発するという仕組みを持つにすぎない。享楽主義とロマン主義とはこのように説明ができ、理性を行動原理とするとき、理性の命令する所に適った言動が善き生を意味する。理性が感受することができるのは、感覚でもなければ、感情でもない。行動とそれにたいする周囲の反応の客観的な事象とそこに感じられる超感情的情感である。幸福や喜びは感性や悟性によって支配されている心情ではない。幸福や喜びは人間にそなわる特別な一等感覚で、痛みや苦しみなどの反対にあるものではないから注意してほしい。幸福や喜びに隠された人間理性の真実を発見しなければならない。幸福や喜びは単純ではない。理性の人は常にこの幸福と喜びの獲得に必死になっている。理性が求めているもの、それがなんであるのか、それに適うように言動と生活を実践できるのか、絶望は確かにある。幸福や喜びや探し求め、勝ち取らなければならない。感覚や感情によって与えられるものではなく、超感情的な情感、それがなんなのか、つきとめなければならない。

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No title

こんにちは。おひさしぶりです

倉田百三はなにをきっかけに手にすることになったのですか?ちょっと興味を覚えました。
お忙しいでしょうから,おへんじはひまができたときでかまいません。
キリスト教と浄土真宗と非常に似通った部分がある,そこがよく若者の心をひきつける魅力がある,力がある,そんなところも考えています。
西田幾太郎,鈴木大拙などもお読みでしょうか?
いずれにしても相変わらずの幅広い読書におどろかされます。

感性や情性はたしかにうまれもった器官のひとつかもしれませんね
感覺の結果得るものが理知だとおもいます。
さらに
理知の獲得の經驗と蓄積が無ければ,理性は生まれません。
感覺の結果,理性が宿る。
また
覺悟,吾れの心を感覺してつぎに悟性が生まれます,ちがいますか?

ここのところの機微,つまりこうした人の心の動き,段階と経緯,を伝えるのが性という字のりっしんべんです
“生まれた心”です。“生”に心が宿る。
ジェンダー,生殖,としての意味もあるので,なかなかシンプルではありませんが。

だいぶ秋らしくなりました,今宵は早くも中秋の明月ですね。お仕事のほうは順調でしょうか。
ご自分を棄てなければならないような頑張りまでは,しない程度に,どうぞがんばってください。

Re: No title

コメントありがとうございました。
こんにちは。おひさしぶりです。
気にかけてくださってとてもうれしいです。

僕は読書をする上で、幅広く読むこと――特に文学に関して――を心がけているのですが、日本文学は自国の文学であるにもかかわらず、あまり読んでいないので日ごろから「よくないなぁ」と思いながら、書店に立ち寄る度に一通り物色することにしています。「愛と認識との出発」という題にも引かれましたが、概要のところに昔の青年たちの伝説的愛読書だったとあり、「これは現代の若者であるなら、ますます読まなければならない」という思いに至り、手にした次第です。ちょうど二十歳くらいだったので、一度は考えたことのあることについての深い洞察と探求、その結論にとても引き込まれたことを今でも覚えています。

西田幾多郎は「善の研究」を一度読みましたが、純粋経験については知識として残っているものの、まだ読書量も乏しい時期だったこともあり、ほとんど身になっていないので、近々読み直したいなと思っています。
西田哲学と呼ばれるように、日本を代表する哲学者であるという知識が僕にもありましたから、読んでみたまでですから、鈴木大拙は読んだことがないです。恥ずかしながら、日本文学の知識が乏しいのです。

やはり、こうして記事として書いてみて、意見をうかがうと非常に有益です。感覚があって、それに伴う体験・認識が作用して、悟性を形成し、理性なるものが生まれてくるということを、もう少しじっくりと考え、論じなければいけなかったと反省しています。
理性・悟性・感性の自我に働きかける力強さの違いはどこから生じてくるのかということが気になっています。

おとといの仕事終わりにふと月を見上げて、同時に美しいと直感したので悪くない心の状態だと感じたのですが、中秋の明月が近かったのですね。充実と充足の日々が送れていますから今のところはうまくやれていると思います。明日から研修も終わり、一人で仕事をやっていくのでまたどうなるかわかりませんが、自分を豊かにするための労働ということを忘れずにやっていこうと思います。

ありがとうございました。

細分化しすぎるのも,こまったものですが。つい。

おはようございます。
なるほど,はじめさんが,“書店で本をえらぶ”方だということをうっかりわすれていました。広範に本を選ぶには充実した書棚の全体をみることがたいせつですものね。わたしも若いときそうでしたが,今は便利さにながされもっぱらネットです。反省いたしました。
おもえばそうして本を手に取るというのは心おどりましたものです。縁と偶然も作用して,世界が広がっていくスリルもたのしめました。


「理性・悟性・感性の自我に働きかける力強さの違い」,それが個性ではないですか?。みもふたもない言い方ですが

感覚して理性知性がうまれると,どのような自分がうまれるかというと,いわゆる主我と客我ではないでしょうか

それとは別に,個我を,認識する,という行為にすすむと,どちらが主体になって認識をするのか,という,ちがいもうまれます。
主体は心か身か。アタマか感受性か。
あるいは天か地か。

天は客体ではないと識るのが,悟性ではないか・・・そんなことをこのごろかんがえます。ちょっと抽象的なことばですが。
地は,孤独の足元が踏みたつ地面だと,ぼんやりおもいます。
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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