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人間とは排泄と生殖のための有機体


雨を忍ぶことは、勝負の掟の一つであり、出産には必然的に陣痛がともない、左手を毒蛇にかまれてその牙がくいこめば、右手で鉈をふるって左手を切りおとさなければならないのと同断であった。それは生前のためには必要なことであり、生存は愉快ではない多くのことを必要としたのである。これらの日々は一方で、腐植土を蓄積し、堆肥を発酵させ、落葉を腐らせていたが、これは、すべての生殖は老廃物の近くでおこなわれるという法則にもとづいていた。すなわち、生殖器官と排尿器官はからみあっており、生命は――ちょうど、無垢のアスパラガスやみずみずしいハッカが堆肥からはえでるように――粘液と漿液と血にまみれて誕生するのである。   『失われた足跡』より



私たち人間とは何かといえば、簡単に、排泄と生殖の働きを持つ有機体に過ぎず、その活動はすべてこれらの機能のために行なわれている。排泄にしろ生殖の結果の出産にしろ、やはり人間から出できたるものは汚くて醜いものである。人間の手に触れるとすべては悪くなるということをルソーは言ったが、当然その人間から出てくるものはろくなものではないのだろう。生命を軽んじ、さげすむつもりはないが、人間に備わるこの不愉快な生存条件というものが、どうしても僕に嫌悪感を抱かせる。世界、細かく言えば社会、を眺めればすべてのものはこの排泄と生殖のために用意周到に準備されている。これらは僕をいらつかせる。内臓に負担がかかろうとも、食欲の命ずるままに暴飲暴食を繰り返す。家畜を毎日何トンも屠っている。私たちは後始末のことを考えることが苦手だ。あらゆる問題はこの性質に帰結する。行動を起こすのは得意だが、後のことをその瞬間忘れてしまうのだ。出産という苦しみを考えたら、女性は妊娠に対して幾分躊躇しそうなものだが、決してそんなことはない。これは本能が強く働くからなのか、あるいは産むという現実よりも、子どもという己の分身ともいえる生命が己から誕生するという神秘と感動によって覆されるからかはわからないが、僕はいまだかつて、自分自身の遺伝子後継者という「子ども」をほしいと思ったことはない。生命というものが、殊更に美化されほめそやされる傾向が強い昨今だが、僕はまだその是非に明確な現実味や希望を見いだせてはいない。ただ、生殖に許される時間は限られている。僕のように、ある意味で本能を失ってしまった人間は、ならば生殖ではなく何に生きる活力と目的を見いだすべきなのだろうか。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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