「差異」ではなく「豊かな多様性」


富める者は貧しい者よりも大きい胃袋をもっているわけではなく、いっそうよく消化するわけでもない。主人は奴隷よりも長くて強い腕をもっているわけではない。高貴の人は人民に属する人よりも背が高いわけではない。そして、結局のところ、自然の必要はすべての人にとって同じなのだから、それをみたす手段はすべての人にとって同じであるはずだ。人間の教育を人間にとってふさわしいものにするがいい。人間でないものにふさわしいものにしてはいけない。あなたがたは、ある身分だけにふさわしい人間をつくろうと努力して、その人をほかの身分にあってはぜんぜん役にたたない人間にしていること、そして運命の女神の気が変われば、その人を不幸な人間にするために努力しただけになることがわからないのだろうか。大貴族が乞食になって、みじめな状態におちいりながら、その生まれからくる偏見をもちつづけていることくらいこっけいなことがあろうか。貧しくなった金持ちが、貧しい者にあたえられる軽蔑を思って、このうえないみじめな人間になったとみずから感じることくらい卑しむべきことがあろうか。生活の道としては、一方には公然の悪者という職業があるだけで、他方には「わたしは生きていかなければならない」というすばらしいことばを口にしながら卑屈なことをする下僕の仕事があるだけだ。   『エミール』


私たちは日常において他者との差異を感じないときはない。子どものときは今よりも周りの友人にしろ、先生、大人たち、すべての人たちに対して何か特別な差異というものを感じなかったように思う。単純にあった差異は「女の子」と「男の子」、「大人」と「子ども」、すなわち性差と年齢差だけであった。たしかにクラス内にハーフの子や外国の子がいたら敏感にそれを感じとり違うなという認識は持っていたので、厳密に言えば人種も差異に加えられるかもしれない。けれども、この人種的な差異に関しては明らかに大人の方が敏感に反応している。これは僕にとっては大きな衝撃だったのだが、近頃とくに――ネットの普及もあってか、在日やコリアンというような同人種での国籍、あるいは微妙な違いというものに対して非常に強い反応を示しているように思う。しかもそれは、侮蔑や見下すニュアンスを含んだものである。こうした差異について私たちは小さい時から慣習的に「違い」を認知し、対応するクセがついている。ところが、その差異がどういった事情から生じ、なにゆえにそういった具体的な対応をとらなければならないのかということについては理解していることはほとんどない。「女の子には優しくしなさい」、「大人は敬いなさい」、「人種差別はいけません」、もっといえば「いじめはいけません」こういったことは何度となく言い聞かされ、口にすることを強制された。だが、中身が伴わない皮相の思想であり、教訓であったから、行動規範とはなりえなかった。納得しないままに強制されることは、えてして反抗心を芽生えさせる。知らぬ間に優劣や差別がその命題の存在理由となり、やがて「女の子には優しくしなさい」、「大人は敬いなさい」、「人種差別はいけません」、「いじめはいけません」が絶対的な存在でなければならない錯覚となり、ゆえに「女は劣っていなければならない」、「年長者は優れていなければならない」、「異なる人種は異なる人間でなければならない」、「人間には強弱や優劣がなければならない」という前提をつくりあげてしまう。そもそも優しくすることや、差別をしないことについて性差や人種に限定することは誤りであると思う。「差別をなくそう」ではなく、「個人差」というあらゆる差異を小さく平等な要素に落とし込めないものだろうか。自然の掟から人類が脱却しようというのであれば、生存競争に端を発する優劣、強弱という尺度を廃し、豊かな多様性という発想に向わなければならない。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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