「ゆずる」、「ゆるす」、「あいする」
僕は自分が「人にゆずる」ということができることを誇りとしているし、美徳だと思っている。
僕は後回しでいいし、休憩やものの争奪など、あらゆる利害が生じる選択において他者にゆずる。「どちらか先にあがっていいよ」と言われれば、僕が「最後までやるからいいよ」とゆずる。「どちらでもいいから、好きな方選んでいいよ」とゆずる。仕事でいえば、雑用か平凡な仕事かで雑用を進んで選ぶ。そしたらほかの人が楽になるから。僕は人一倍、汚れや不合理に厳しいから結局やってしまうことになるからという理由も含んでいる。
だからといって、やってやったぞというような優越感やいい人らしさは出したくないから、なんとなく気づまりを感じる。むしろ彼らが気まずさを感じるべきだと思うが、得してラッキーくらいにしか感じないから話にならない。どういう顔をしていいのかわからず、僕は気づまりがする。恥ずかしがるか、ねぎらうかしてくれれば、僕もあっさりしていられるのだが、他者の働きについてみんな無頓着すぎる。今の立場や環境があるのは、いつなんどきでも自分以外の誰かが動いているからであり、それを意識して感じなければ人として情けない。
「人にゆずる」、これは僕にもできているようである。続いて、「人をゆるす」という高い徳を持たなければならない。これは世の中で最も難しい徳であるし、もし世界中の人がこの徳を持つことができたとしたら、世界には平和がもたらされる。最後に、「人を愛する」これは究極であり、徳を超え、最大のなにかである。これによってのみ世界は幸福になれる。これらがきれいごとであることは薄々感じている。大切な人を奪われて、相手を愛すことなどできない。その通りだ。しかし、これこそが争い、戦争の発端なのだ。歴史、先代、そうしたものに対して怒りと反抗心を起こして、相手に対峙していくのであれば、歴史は繰り返す。考えてみれば、僕の祖父を奪ったのは、ある意味医者であるということができると思うが、だからといって、僕たちは通常医者を恨みはしない。同じことだ。他国を恨むということは、変な誤解と偏見からくるにすぎない。当時の政治や情勢によるところがあって、つまり病気の具合も左右しているのであって、相手だけにその原因を求めることは道理に合わない。ちょっと見方と考え方を変えて、ゆるすという徳を身につけなければならない。
僕は後回しでいいし、休憩やものの争奪など、あらゆる利害が生じる選択において他者にゆずる。「どちらか先にあがっていいよ」と言われれば、僕が「最後までやるからいいよ」とゆずる。「どちらでもいいから、好きな方選んでいいよ」とゆずる。仕事でいえば、雑用か平凡な仕事かで雑用を進んで選ぶ。そしたらほかの人が楽になるから。僕は人一倍、汚れや不合理に厳しいから結局やってしまうことになるからという理由も含んでいる。
だからといって、やってやったぞというような優越感やいい人らしさは出したくないから、なんとなく気づまりを感じる。むしろ彼らが気まずさを感じるべきだと思うが、得してラッキーくらいにしか感じないから話にならない。どういう顔をしていいのかわからず、僕は気づまりがする。恥ずかしがるか、ねぎらうかしてくれれば、僕もあっさりしていられるのだが、他者の働きについてみんな無頓着すぎる。今の立場や環境があるのは、いつなんどきでも自分以外の誰かが動いているからであり、それを意識して感じなければ人として情けない。
「人にゆずる」、これは僕にもできているようである。続いて、「人をゆるす」という高い徳を持たなければならない。これは世の中で最も難しい徳であるし、もし世界中の人がこの徳を持つことができたとしたら、世界には平和がもたらされる。最後に、「人を愛する」これは究極であり、徳を超え、最大のなにかである。これによってのみ世界は幸福になれる。これらがきれいごとであることは薄々感じている。大切な人を奪われて、相手を愛すことなどできない。その通りだ。しかし、これこそが争い、戦争の発端なのだ。歴史、先代、そうしたものに対して怒りと反抗心を起こして、相手に対峙していくのであれば、歴史は繰り返す。考えてみれば、僕の祖父を奪ったのは、ある意味医者であるということができると思うが、だからといって、僕たちは通常医者を恨みはしない。同じことだ。他国を恨むということは、変な誤解と偏見からくるにすぎない。当時の政治や情勢によるところがあって、つまり病気の具合も左右しているのであって、相手だけにその原因を求めることは道理に合わない。ちょっと見方と考え方を変えて、ゆるすという徳を身につけなければならない。