隣人愛とはなにか


私は博愛行為に対して与えられるべき讃辞を惜しんでいるわけではなく、その生涯と業績によって人類に恩恵を与えているすべてのひとびとを公正に扱うよう求めているだけである。人間の廉直さや善意ばかりを尊重するわけにはいかない。それらはいわば人間の茎であり葉であるにすぎない。(省略)私が求めるのは人間の花と果実だ。その人物から私のほうへと、えもいわれぬ香気がただよい、精神の成熟がふたりのまじわりに風味を添えることを望むのだ。彼の善良さは、部分的で一時的な行為としてあらわれるものではなく、労せずして無意識のうちに滾々とあふれ出る泉のようなものでなくてはならない。それこそ無数の罪をおおう慈愛というものだ。博愛主義者はあまりにしばしば、自分の脱ぎ捨てた悲しみの記憶で人類を大気のようにすっぽりと包み、それを同情と呼んでいる。われわれは絶望ではなく勇気を、病気ではなく健康とやすらぎを分かちあい、病気が感染によってひろまらないように用心すべきである。南部のどの平原から嘆きの声が聞こえてくるというのか?どんな緯度のもとに、われわれが光を送りたがっている異教徒が住んでいるというのか?われわれが救いたがっている、かの不節制で狂暴な男とはいったいだれのことなのか?   『森の生活』より


自分が他者よりも優れている能力を持っているという自覚を得たとき―それは虚栄心の始まりなのだが―、人は大きなことを、偉業とでもいうべきものをしたがる。実際的な能力であればある分野のプロフェッショナルになるということであろうし、いわゆる人間的外面、あるいは内面が優れているというのであれば、ある組織の中でのリーダー、もしくは凡人によって支援されるある分野の著名人となることがその目するところになるだろうと思う。

たとえば思慮深い学生や自己愛に満ちた大人が、キリスト教をかじって、逆に世界平和のためにキリスト教を学んで、自らが信仰する宗教の宣教を企てたり、そうした教えに影響されて、人類の幸福を考えなければならない!と想像をたくましくして、その反動で現在の世界情勢に失望を抱いたりすることが多い傾向があると思うのだが、僕自身かつて、学生諸君、キリスト教をもっと知らなければならない!とそうした半ば軽蔑した目で周りの学生や大人たちを見たこともあったが、自分自身がそうした偉大な思想を単にかぶっているにすぎず、むしろ優越感を得るためにそうした自負心を満足させて、実際に何の行動もしていないにもかかわらず、「知は力なり」という誤った解釈に安心して、さも優れた思想家ぶっていた。次第に僕は気付いていった。自分の周りで現実に起こっている悲劇に対して愛をもって接することができないことのごまかしとして、そうした見えない対象に対して愛を持とうとしていたのだと。救うべきはアフリカの貧困と飢餓に苦しむ子どもたちだろうか?なぜ人はそうした自分とは遠い人に対して慈悲をかけようとは呼びかけ、努力するのに、同じ町に住む、恵まれない人に対しては慈悲のことばすら発しないのだろうか。皆が皆偽善者であることは、もうみんながわかりきっている。宣教する資格もないのに宣教をしようとするエセ宗教家には腹が立つ。人のことはいいからまず自己の人格の形成に没頭し、勤しめ。世界や戦争を嘆く前に、身近な悲劇に目を向けよ。「隣人愛」の真の意味を知ったとき、これは真理だと思った。

僕と接した相手がどのように思うかということはどうがんばったって僕は知ることができない。不快に思うだろうか?それともやすらぎを感じるだろうか?もしも相手の気持ちがわかったとしたら、僕はなんとかより心地よくなれるように努力しようと思うのだが、そうはいかない。僕は善い人間になりたいと思うし、友人を多くもち、彼らと善い関係でありたいと思う。しかし残念ながらそのための説明書はない。現状の友人関係をはじめとした親しい人間関係のすべてに満足しているわけではないので考えていかなければならない。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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