逆境に置かれて始めて人間の価値が表れる 恋は男のものでない

「或る人が何であるかは、彼の才能が衰えるときに、―彼が何を為しうるかを示すことを熄(や)めるときに、始めて暴露される。才能もまた一つの化粧である。化粧は一つの隠蔽である」


「両性は互いに騙し合う。彼らは根本において、ただ自分自身を(或いは、もっと耳触りのよい言い方をすれば、自分自身の理想を―)尊び、愛しているにすぎないからである。このようにして、男は女が和やかであることを望む。しかし、ほかならぬ女こそは、どんなに外見上の和やかさを練習したとしても、本質上は和やかなものでなく、さながら猫に似ている」   『善悪の彼岸』より


この言葉はいろいろなとらえ方ができるように思う。読む人の思想や環境によってどのようにでも変化しうる含蓄のある言葉だ。僕にとっては、逆境に置かれて始めて、その人の人間としての価値がわかるという意味で響いた。あるいは、衣服から始まり、肩書にいたるまで、私たちが身に着けているあらゆるものを脱ぎ去ったときに始めてその人の人間的価値が示されるということだと感じた。

僕は自分自身がなんであるかを知ろうとはせず、何者かであろうとしていたのであった。他者との差となりうる才能を駆使し、何かを世界に対して働きかけ、為し得ようとしていた。今思えば、傲慢でうぬぼれが強かった。なんであるかを知りもせず、露わにすることもしないで、あたかも真情と正直を誇りとして活動していたのであった。最近になって、傲慢とうぬぼれによる働きかけをやめることにした。するとなるほど、僕という存在がどういう好みと傾向を持っているのかということが明らかになってきた。行動、日々の生活がより意志ではなく欲求と気分に支配されるようになったのである。これは少なからず、大きな発見であった。

両性は互いに騙し合う、か。騙しているというよりも、自分自身の傾向に単に従っているというそんな気がする。男は自尊心が強く、性欲に従う。女は欲望そのものよりも、満足感を一層強く感じるため、求めるよりも、与えられることに関心があるのだと思う。同じ空腹であっても、男であれば空腹が満たされる”食べる”という行動自体に満足するのであるが、女の場合は自分の嗜好に合った満足感を得られるかどうかが問題になる。、あまい、おいしいなどの味、場所、料理の仕上がりによるのだ。そういう意味で男よりも女の方が貪欲だと僕は考えている。欲望に深みがあって、それを感じるだけの感官とでもいうものを持っているに違いない。男が単純といわれるのもそのためではなかろうか。男の場合、物質的欠乏による欲と表面的な優越で容易に自尊心を高められるのである。こうして分析してみると、両性はよくできていると思うし、やはり男の方が扱いは簡単だと思わざるを得ない。女にとって、自尊心をくすぐり、性欲を満たすことなどたやすい。ただし、一つだけ大きな課題があって、性欲を満たすための肉体的条件を満たさなければならない(外見のかわいさなど)。逆に男が女を扱うのは難しい、いや猫と同じくコントロールすることは不可能に近い。タイミングなどの偶然的要素を満たすことができなければ、都合のよい欲望を満たしてあげることなどできないのだ。いくらアピールを試みたところで相手にその気がなければ万事休す。しかし、女にたまたまその気や欲望を満たすようなことがあると、勝手に向こうから頼んでもいないのにやってくることもある。こんな具合だから恋にかかずらうのはどうしてもナンセンスと思えてならない。男にとってみれば恋は思うようにならない、偶然的な要素が多すぎるのだから。

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「物事を外観によって判断しない人間こそ淺薄なのだ」

あるいは
「世界の神秘は目に見えぬものではなく目に見えるもののなかにある。」
というオスカー・ワイルドのことばををごぞんじですか?

ニーチェの
「事実というものは存在しない。存在するのは解釈のみである。」
同じことを言ってる氣がします。

外観,化粧,どちらも人間の品性や性質を痛切にさらけだしてしまう要素であるということは,おうおうにしてかんじることもありますし

わたしたちは,そのじつひとの何気ない仕草にこそ本音を見たり,心の美しさや,いやしさなどを,みきわめるときもおおい氣がします。

人間的価値に内外はありませんよね,(内,あるいは,外,どちらか一方に重きを感じすぎるなら,書物には実体はない,ともいえるきがするのです。
逆に身体的な變化やまわりの日常に “確實”に起こっていること,“確かに実体を伴ってある存在” に意味を重く感じるときもあれば,なんとむなしく無為なものだろうとおもうことも。

内と外は絶えず入れ替わるんです,だからバランスよくいきましょうよ,

というこれが東洋思想の根っこで,孔子いうところの“中庸”の意味のひとつでもありましょうか

あまり,価値はどちら側にある,とかはかんがえないようにしています
もっといえば
才能=価値あるもの 無能=価値がない,とかも。

“うぬぼれ”,とは謙虚の対義ではないとおもいますし
謙虚の対義は自信です。
うぬぼれの対義は,⇔努力です。 それはもしかして
実体のないもの⇔実体ということなのかもしれませんが

すこしつけたしを

手軽に得られる,たとえば
検索して得られるものなど,しょせんつまらない, “絶対” ,それを個別にとりだすだけでは,得たことにはならないのであって。
ある物事やその知識の,重さや軽さを量って相対化することで (少なくとも自分のできる最大限の範囲で),“解釈” は深まり,“認識”でき“知識”は生きてきますものね。

わたしがHajimeさんのブログをとても気に入ってよく訪れるようになったのは,引用と(つまりすでにあるもの≒絶対?)その相対化をきちんと,こなしている,すがすがしさがあるからでした。

その,内なるナカミは,
すごいな,とうなるものもあるし,いやあ,そこは浅いかな,とか,若者だな~とか,いろいろです。でもこのことは,ひとつの実体,ということができるのではないでしょうか

こういうブログは本当に面白いと思いますし,あたりまえのことのはずなんですが,実際には数少ないのです。

“引用”ではなく,コピペーや剽窃や拡散?ばかりあふれるブログ,ちまたの言説は,わたしは読みませんし。


(ワイルドについては自分のブログにおへんじしました)

お言葉をありがとうございます。

思想は体験からのみ得られると考えていますから、知識としての単なる文字情報はそれだけでは意味を持たないと思います。その知識と自分の体験を自分の力で結び付けて実感を得、思想としなければなりません。文豪たちの言葉はこの結び付けを助けてくれるわけです。また批判と懐疑の目でそうした言葉に対さなければなりませんよね。時代や風潮は変わりますから昨日正しいことが、今日間違っているというのは人間世界ではよくあるそうですから。

こうした姿勢を認めてくださったことは大変うれしく、自信にもなりました。言行一致は難しいことですから。
ナカミに関してもうなるところがあったことは驚きました!でもほとんどは年長者で博学で知見をお持ちになった玄少子さんにとってみれば弱く稚拙な思想であるに違いなく、恥ずかしい限りですが、思想や思考に関してはごまかしようがありませんし、僕の力が事実この程度なのですから仕方ありません。けれど、日々精進して思想を深めていくことは可能ですし、まだまだ鍛えることができるのであきらめずに道を歩んでいこうと思います。とても励みになりました。

プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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