何かを創造したことは否定できない。問題は、その価値である


ここではこう述べるにとどめておこう。もしもチェスの指し手の問題が大まかな意味で「役に立たない」とすれば、最高の数学もまたそのほとんどは「役に立たない」ということである。……私は何一つ「有用」なことはしてこなかった。私の発見は、直接的にも間接的にも、また良きにつけ悪しきにつけ、この世を住み良いものにするためにはいささかの寄与もしなかったし、今後もするとは思えない。……あらゆる実際的な基準で判断すれば、私の数学者人生の価値はゼロである。そして数学以外には、いずれにせよ大したことはしていない。まったく無意味な人生だという裁定からのがれる唯一のチャンスは、私が創造に値する何ものかを創造したと判断されることだ。そして、私が何かを創造したことは否定できない。問題は、その価値である。   (ハーディの言葉)


数学は知的好奇心をくすぐり、知識欲に満足を与えてくれる。数学には調和と美が隠されており、その向うところは真理と世界の解明である。僕は数学を学問の王様と考え、あらゆる学問は数学的知識なくして成り立たず、すなわち数学こそが人間の力による学問で、そのほかは所詮事象の解釈に過ぎず、この世界を離れれば意味を持たない可能性を秘めているが、数学だけは無からつくりあげられた特有の世界を持ったものなのである。

僕はこの世界の元凶が学問に関係していることは否定しないが、根本原因が学問にあるとは考えない。学問をしている学者、その他、知識人とでもいう人を僕は尊敬するし、彼らのやることに間違いがあろうはずがないと思っている。学問を究め、世界の理解を深めることに欠点などひとつもない。ただ、彼らは純粋で真面目であるから、その研究成果が結局悪事に利用されることを想像することができない。彼らは容易に悪の手が伸びている先に学問という大きな力を安易に差し出す。原発にしろ、公害をもたらす工業にしろ、その発端は科学技術の進歩に依っている。だが一方、戦争や公害、あるいは事故によって科学技術が発達するという側面があることもまた事実だ。歴史上、この科学技術の発展の舞台裏によって人類は苦しんできたのだが、表舞台では華やかな暮らしという幻想に惑わされて、だれも危機感を覚えていない。

どんな道具でもその使い手によって役立つ道具にもなれば、凶器にもなる。学問にも同じことが言えるわけで、扱う側、学問を利用するにあたっては世界に対する観念、思想を健全にしたうえでなければならないのだが、残念ながら人々はおもちゃを与えられた子どものように、無邪気に、時には乱暴にそれらを扱ってしまう。

考えてみれば、僕が世界を探求し、人生について思索し、世界のあり方を考えることは、数学者が数学をする以上にこの世に対してまったく実際的な利益をもたらさないだろう。僕が考えることなど、現在でも、今までも多くの人たちが考えてきたことに違いない。考えなければならないことを考えたという最低限の義務を―この義務すら果たしていない人間が多いわけだが―果たしただけだ。しかし、人間が一人ひとり違った個性をもつとしたならば、僕から新たな思想が一つでも創造されないとは限らないではないか?ハーディの場合、数学的な何かを創造したことは事実であり、そこから見出される社会的実際物の世間によって与えられる価値がどうであるかということなのだが、思想という点においても、じっくりと考えた結果得られた思想に基づいて生きるということは、自分なりの生き方を創造したという意味に他ならないし、それがまた何かを生み出すような社会的な価値があるものだとしたら、それこそ意味を持つことになり、そのためにも積極的な働きかけをしていく必要があるのだろう。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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