「善く生きること」、それは友情と愛情


ソクラテスが言ったとされる言葉、「大切なことは単に生きることではなくて、善く生きることである 」

哲学がここから始まったように、僕もまた「善く生きること」について考え、そのために生きるようになった。それは僕が高校生のときのことだった。

これはつまり「生きる」ことに目的を見出すということであって、人間には生きる意味があるのかもしれないと探ることだともいえるかもしれない。そしてその目的や意味として、神や良心、善や美という概念が生み出され、用いられてきたように思う。その過程には認識については「われ思う、ゆえにわれ在り」のような自我の発見、「純粋理性批判」における覚知と理性作用との隔絶の究明、「善悪の彼岸」に見るところの神や宗教、「自然に従え」や文明や時代を至上主義とするような既成概念に対する懐疑と批判、一方で「森の生活」に描かれる現代批判とストイックなまでのミニマリズム。

このように思索し、思考していくと矛盾するようで、それぞれがバランスよくはめこまれるような規範というものにいたれそうな気がしなくもない。すなわち、「善く生きる」ための指標はもう失われてしまったといっていい。宗教はもはや古いと僕は考える。「人を殺してはならない」と宗教が教えるから人を殺さないのではない。人を殺す理由がないから人を殺さないのである…では、その理由があるとしたら?もし愛する人を殺されたとしたら、その人を殺してはいけない理由が僕にはどうしてもみつけることができない。愛する人を失った後の人生がどれだけ悲痛なものであろうか。それの原因に対して何の感情も抱くなということは不可能である。けれども、愛は少なくとも愛でしか償うことができない尊いものだ。だから誰もが愛を知らなくてはならない。愛が世界にあふれなければならない。一人で生き、一人で死んでいくことを望んでいる人など一人もいない。みんな誰かから、できれば多くの人に愛されたいと思うし、自分も多くの人を愛したいと思うだろう。しかしながら、愛を持っている人でなければ、愛を感じることができない。たとえ僕がここで愛を語ろうとも、それを理解する人は少ないに違いない。僕はなるべく多くの素晴らしい言葉や考えをここに記してきた。だが、結局そうしたものを求め、知っている人がそうしたものに対する感覚を持っていて、このブログを訪れ、読み、少なからず心に響く何かを感じるのであって、愛や知識、探求心や世界に対する目を持つべき人間は永久にそうしたものを求めないから、触れる機会を得ず、ずっと世界におけるつまらない存在であり続ける。僕自身も矛盾を感じている。こうした言葉を連ね、記すことは実は、先人たちの思想を汚し、価値を貶めているのではないだろうかと。僭越にも僕は自分の思想を吐露している。貧弱で浅はかな思想だ。多くの先哲たちが残した言葉と思想に比べればそれは明らかだ。生きるための大義はなくなった。芸術や文学は気取らない程度にやるがいい。よき思想とよき友を持て。生きること、働くこと、旅すること、それらがつまらなくなるのは、そこに情がなくなったときだ。一緒に生きる人、一緒に働く人、一緒に旅する人、あるいは旅先で出会う人、そうした人たちとの間に愛情や友情や、そうした心のこもったやりとりがあれば、退屈ではないはずだ。

「善く生きること」、それは善き友人・仲間を持つこと、愛のやりとりを日常で行うこと。

ではそうしたことを実現するためには何をするべきであろうか?それを少し考えてみることにする。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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