高級なもの、高尚なものは人を選ぶ


高級な種類の人間には栄養や清涼剤として役立つものも、それとは非常に違った劣等な種類の人間には殆んど毒に近い。通俗な人の美徳は、哲学者にあっては恐らく悪徳や弱点を意味するであろう。高貴な素質の人間が頽廃し破滅するとしたら、彼はこれによって始めて、彼が落ち込んだ低劣な世界のうちでいまや聖者の如く尊崇されるに必要な諸性質を所有するに至るということは、ありうべきことであろう。低劣な魂、劣弱な生命力が読むか、または高級な魂、強壮な生命力が読むかに応じて、魂と健康に逆の価値をもつ書物があるのだ。前の場合には、破壊的・解体的な危険な書物となるし後の場合には、最も勇敢な者たちを彼らの勇敢さへと励ます伝令官の叫び声である。万人向きの書物は常に悪臭を放つ書物である。民衆が飲み食いするところでは、崇敬するところでさえも、常に息が窒るものだ。清浄な空気を呼吸したい者は、教会へ入ってはならない――   『善悪の彼岸』ニーチェ著より


フリードリヒ・ニーチェは過激だ。しかしゆるぎない信念と力強さによって読む者は刺激を受け、触発され、生きる希望、人類愛、真の自己愛に目覚める。孤独や苦境に負けない強い意志、生命力、そうしたものこそが私たちを幸福へ導き高級で高貴な人間たらしめるのである。僕は思う、結局のところ、自分の哲学、思想を持とうとしない者は低劣であり、また哲学や思想ではなく、偏見や独りよがりに拘泥してしまっている者は劣弱であるといえるのだと。哲学や思想を発展させ、育て、力強く鍛えてくれるものこそが良い書物であり、良い師ということなのであろう。万人や民衆というものはそうした哲学や思想を欲しないから、当然の帰結としてそういったエッセンスの含まれていない書物や師、友人をもつ。だから世の中は哲学も思想もない、ただ快楽や面白みという仮面をかぶった滑稽さ、感覚器官を表面的に刺激する刺激物で構成されているものにあふれているのだろう。僕はそうした刺激物や臭気を帯びた趣味には我慢できない。出来の悪い人間には例えば里山は無駄な土地の利用法だと感じられ、家を建てるなり、削って投機に利用できるようにすればいいのにと考えるだろう。だが、優れた高貴な精神の持ち主ならば残されたあるがままの豊かな自然に言葉を失い、ただただ懐かしさと偉大さを感じるに違いない。人が踏み入ることすら畏れ多い、神々の宿る山というような里山を見たことがない人も多いかもしれないが、自然の偉大さに触れてみるといかに自分たちがちっぽけで無力な存在であるかがわかる。自然はいつでも私たちを鑑定し、力試しとでもいうような試練を与えてくる。それを私たちが力でねじ伏せようとしても無駄なことは経験的に生きれば生きるほどわかってくるはずなのだが、ずいぶんこの世に世話になっているいい年をした大人たちの多くが物わかりが悪く、まともな生き方を示せないというのはどういうことなのだろうか。しかし日々にうんざりしていても、ときどきこうした書物や師、友人に出会い、勇敢さへの励ましの号令を遠くに聞くような思いに至ると、改めて強く生き、日々に負けずに高いところで生きようという思いを新たにするのである。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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