哲学について 僕の読書遍歴と照らし合わせて


独立であるということは、極めて少数の者にしかできない事柄である。―それは強者の一つの特権なのだ。そして、そうするに極めて十分な資格があるにしても、そうしなければならないわけでもないのに、独立であろうと試みる者は、それによって彼が恐らく強いばかりでなく、むしろ放縦なまでに果敢であることを証拠立てる。彼は迷宮に入り込んでいく。彼は生そのものがすでに伴っている危険を千倍にもする。彼がどのように、またどこで道に迷い、孤独に陥り、良心という洞窟のミノータウロスが何かによって切れ切れに引き裂かれるのを誰も目撃しないということは、決してそうした危険のうちの最小のものではない。このような者が破滅するとしたら、それは人々の理解の及ばないほど遠いところで起こることであって、彼らはそれを感じもせず、それに共感することもない。―そして、その者はもはや帰って来ることができないのだ!彼がもはや帰りえないことを人々が同情しようとも!――   『善悪の彼岸』より


さすがニーチェ、語るべき何もない。これほどまでに「独立」ということをはっきりと明瞭に簡単に詩情を込めて表現できるとは、恐れ入った。彼は哲学者の域に収まらず、その文学的素養と詩情から一個人の人間としても大変に優れていたことがわかる。

哲学というとなんだか難しく、わかりにくいというイメージがある。僕もそうだ。哲学は敬遠しがちだし、理解力も乏しく、哲学書の読書量も心もとない。しかし、読んでおくべき人は読んでおきたいという気持ちは、一般人と同じく、それをいくらか実行に移せているとはいうことができそうだ。

読むべき哲学書とはどういったものであろう。ギリシャ哲学のソクラテス、プラトンに始まり、かつての学生の間では常識であったという「デカンショ」、身近でときどき話題にも上がる「論語」をはじめとする東洋思想、最近ではインド思想なども注目を集めていたりするそうであるが…。このように哲学にも体系があり、歴史がある。時代が進めば当然、多様化し、複雑になる。邪道がまかり通り、つまらない亜流が増え、正道が見えなくなる。つまり真理のための哲学ではなく、哲学のための哲学、もっと非道なものになると、生活のための哲学、私利私欲のための哲学が現に存在している。

このブログをお読みいただいてる方に、ぜひ指摘していただきたいのは、僕の読書遍歴やその価値基準に誤りがないかということであるが、実を云うとまず、「プラトン」の著作を一つもまだ読んだことがない。これには理由があって、かなり古いものであるし、それ以後のものを読むことでおのずとプラトンの説いた哲学がわかるに違いないと思っているし、現代にはあまりにそぐわない箇所が多く、また後に指摘され、否定されるような事柄も多分に含まれているだろうと考えているからだ。ゆえにギリシャ哲学ではその代表、ストア派のセネカと『自省録』を読むことにしたのである。それから、古典では『論語』、そのほかは「荘子、孟子、老子」はかじる程度、聖書、そして近代思想では「方法序説」デカルト著、「純粋理性批判」カント著、「意志と表象としての世界」ショーペンハウアー著、そして「ツァラトゥストラ」ニーチェ著などが主に読んできた哲学書である。「カンディード」ヴォルテール著や「エミール」ルソー著なども哲学に入るとしたらそういったもの。ドストエフスキーの著作などをみても哲学者よりもよっぽど哲学的であるというものもあるし、一概に哲学者の哲学書だけをもって哲学とはいえなさそうであるし、逆にウィトゲンシュタインなどはなんとなく哲学、社会思想というような感じがしないので敬遠しているが、実際は偏見でそうではないのかもしれない。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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