孤独な放浪者の大きな一歩 拘束時間への抵抗と労働への意味について課題を抱きつつ就職活動 ハローワークへ

「僕は所謂処世上の経験程愚なものはないと思っている。苦痛があるだけじゃないか」

平岡は酔った眼を心持大きくした。

「大分考えが違って来た様だね。―けれどもその苦痛が後から薬になるんだって、もとは君の持説じゃなかったか」

「そりゃ不見識な青年が、流俗の諺に降参して、好加減な事を云っていた時分の持説だ。もう、とっくに撤回しちまった」

「だって、君だって、もう大抵世の中へ出なくっちゃなるまい。その時それじゃ困るよ」

「世の中へは昔から出ているさ。ことに君と分れてから、大変世の中が広くなった様な気がする。ただ君の出ている世の中とは種類が違うだけだ」

「そんな事を云って威張ったって、今に降参するだけだよ」

「無論食うに困る様になれば、何時でも降参するさ。然し今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を甞めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」

平岡の眉の間に、一寸不快の色が閃めいた。赤い眼を据えてぷかぷか烟草を吹かしている。代助は、ちと云い過ぎたと思って、少し調子を穏やかにした。―

「僕の知ったものに、まるで音楽の解らないものがある。学校の教師をして、一軒じゃ飯が食えないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやっているが、そりゃ気の毒なもんで、下読をするのと、教場へ出て器械的に口を動かしているより外に全く暇がない。たまの日曜などは骨休めとか号して一日ぐうぐう寝ている。だから何所に音楽会があろうと、どんな名人が外国から来ようと聞きに行く機会がない。つまり楽という一種の美くしい世界にはまるで足を踏み込まないで死んでしまわなくっちゃならない。僕から云わせると、これ程憐れな無経験はないと思う。麺麭に関係した経験は、切実かもしれないが、要するに劣等だよ。麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちゃんだと考えてるらしいが、僕の住んでいる贅沢な世界では、君よりずっと年長者の積りだ」   『それから』夏目漱石著より


言わずと知れた、明治時代のニート小説、主人公の代助は一戸を構えながら定職に就かず、親の援助で気ままな生活をしているニートであり、物語はそうした状況にある彼を中心にしてすすんでいく。この境遇は実に僕に似ていた。働きたいときに働いて、旅に出たくなったら旅に出る。未来を担保に入れ、現在に投資するといったような賭け事まがいの生き方はスリリングではあるが、周りには心配と多大な迷惑をかけていた。この上なく身勝手で気ままな生き方であった。肯定できないが、否定もできない。それが僕には一番の気がかりであった。皆が苦労し、あくせく働く中、自分はのんびりと自然と人生に耳を傾けるという人間の甲斐ともいうべき与えられた財産に浴すことはなにか罪悪感を呼び覚ますのだった。

日々生き方を変えていくこと、それが僕の課題であり活力を与えるものだった。読書をはじめとする活動はそうした意欲と混ざり合うことで人を変えていく。そう僕は信じていたから、よりよい暮らしと人格のために歩を休めず歩みを続けた。働くことは人生そのものであることを見ないようにしても、それは必ず目に入る。生活が誰かの手によって支えられているということを感じない瞬間などない。よき人生はよき仕事ともにある。ということは真理であろう。心臓が私たちを生かすことが仕事なのだとしたら、心臓を動かすことが僕たちの仕事なのである。すなわち自分に物理的であれ、精神的であれエネルギーを与えるということがもっとも身近で重要な仕事といえる。「人生における拘束時間」という大きな制限に対しての課題と抵抗、労働の意味についての不透明さはあるものの、僕はとにかく一般的な雇用された労働者になってみるのも悪くないという気持ちになった。いろいろな体験と経験、思考の過程を経てたどり着いたのだろうが、今までになく社会的で健康的な思想である。一歩一歩着実に、納得しながら前進するというのが僕のポリシーなので、まず「ハローワーク」に足を運んでみることにした。社会から半ば切り離された、孤独な放浪者にとっては大きな一歩である。

しかし忘れてはいけない。雇用者と被雇用者というのはつまり資本家と労働者という関係であり、資本家はその資本の消費者を相手にお金を徴収する。いわば労働者はそのためのシステムの部品を自ら果たすのである。資本家は消費者のことを考え、労働者のことは考えなくてもよい。消費者は自らの欲する資本に対して関心を抱けばよい。では労働者は?お金のことを考えなければならず、すなわちそれを得るシステムを円滑にすることを考え、そのお金の分配者である資本家から贔屓してもらえるような努力もときには必要ということになる。そのためには消費者に対してももちろん努力することが必要になるだろう。あとは力のバランス次第で自分の思い通りになるはずである。まったく実情は難しいことではない、結局意味とかやり甲斐とかいうことになってゆくのだ。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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