性による自己嫌悪


ストリックランドにとっては、性欲は彼の生活のほんの一部分にしかすぎなかった。少しも重要なものでないばかりか、むしろ荷厄介でさえあった。彼の魂の目的は、もっと他にあった。なるほど彼は、激しい欲情の持主であった。そして時としては、欲情が彼の肉体を領して、肉欲の狂歓に我を忘れることもある。だが、それにもかかわらず、彼の自制力を麻痺させてしまうそうした本能に対して、彼は激しく憎悪した。あるいはさらに彼の放恣に欠くことのできない相手の女をすら、むしろ強く憎んでいたように思う。一度自制力が返ってみると、現にいま欲情を充たしたその女の姿に対してさえ、激しい身慄(みぶる)いを経験した。そのときは、すでに彼の心は静かに天上に遊んでいるのであり、相手の女に対して感じる彼の嫌悪感は、いわば色美しい蝶が、花のあたりを舞いながら、彼自身が勝利感をもって脱け出してきたばかりの醜悪な蛹(さなぎ)の殻に対して、激しい嫌悪を感じるのと同じである。僕は思うに、芸術とは結局性的本能の一つの現われであり、人々の胸の中に、佳人の艶姿が呼びさます感動も、月夜のナポリ湾によって起されるそれも、はたまたあるいはティツィアーノの『埋葬』によって起される感動も、結局は同じ感動にすぎぬ。考えようによっては、ストリックランドが正常な性の解放を憎んだのは、それが芸術的創造衝動の満足と比較して、あまりにも動物的であるというのが理由だったかもしれない。残忍で、利己的で、動物的で、肉欲的な一人の人間を描きながら、いまさら彼を偉大な理想家だなどというのは、実際僕自身にさえ異様に響く。だが、事実はいかんともすることができないのだ。   『月と六ペンス』より


性欲―特に情欲―がなかったら僕はどれだけの人生を有効に使えるのだろうかと思わないではいられない。それは人間の三大欲求に数えられるほど強いものであり、生涯にわたって、ほかの二つ―睡眠欲と食欲―とともに増減はあるものの蓄積と解消、あるいは欠乏と充足を繰返す。しかし、この性欲に限っては抑制することによって解消されるという性質がある。つまり我慢することで欲望に対する充足ではなく、解消という処理を行なうことができる。そういう側面があるからこそ自制力を麻痺させられ、肉欲の狂歓に我を忘れての解放と充足にいたると、自制力が戻って強い嫌悪感―時間の浪費とそのエネルギーを他に向かわせるべきではなかったかという後悔、打算的な利己主義の疑い―を抱く。だから僕は性欲の対象としてよりも、いわば造形美の対象とでもいうような、自然の造りだす有機体として女性を求めたい。その曲線やしなやかさ、質感ややわらかさなど、それらは美しさと心地よさの象徴なのだ。

こう考えてみれば、なるほど芸術とは結局性的本能の一つの現われという解釈は得心がいく。そして僕はこれに好奇心と自制心、悟性と理性による世界の究明という欲求を加えたい。簡単に言えば、芸術と科学への探求である。これは特に男性にやはり特有なものだといわなければならない。女性は、理性、悟性、感性と人間の認識を分割するならば、そういう意味での感性を磨く、あるいは正確に用いることに関心があるといえる。色彩や味、雰囲気、感じ、言葉というものから行動の動機、あるいは欲望を得るのだろう。いずれにしても理性と悟性の発達した動物というべき男性、感性の発達した動物というべき女性という風に区別ができそうだ―差別ではなく、あくまで区別だ。そしてこの区別によって男性が時として持つ、性による自己嫌悪も説明できるように思う。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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