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夏目漱石ゆかりの寺院 『円覚寺』

「鎌倉」は夏目漱石ゆかりの地という印象が強い。「門」をはじめ、「吾輩は猫である」、「草枕」にも鎌倉についての言及がある。どれにも共通して『円覚寺』というお寺の描写がある。

『山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮(さえぎ)っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚(さと)った。静かな境内(けいだい)の入口に立った彼は、始めて風邪(ふうじゃ)を意識する場合に似た一種の悪寒(さむけ)を催した。』   『門』より


『「誰がって。一人は理野陶然(りのとうぜん)さ。独仙の御蔭で大(おおい)に禅学に凝(こ)り固まって鎌倉へ出掛けて行って、とうとう出先で気狂になってしまった。円覚寺(えんがくじ)の前に汽車の踏切りがあるだろう、あの踏切り内(うち)へ飛び込んでレールの上で座禅をするんだね。それで向うから来る汽車をとめて見せると云う大気焔(だいきえん)さ。もっとも汽車の方で留ってくれたから一命だけはとりとめたが、その代り今度は火に入(い)って焼けず、水に入って溺(おぼ)れぬ金剛不壊(こんごうふえ)のからだだと号して寺内(じない)の蓮池(はすいけ)へ這入(はい)ってぶくぶくあるき廻ったもんだ」 』   『吾輩は猫である』より


『石段の上で思い出す。昔し鎌倉へ遊びに行って、いわゆる五山(ごさん)なるものを、ぐるぐる尋ねて廻った時、たしか円覚寺(えんがくじ)の塔頭(たっちゅう)であったろう、やはりこんな風に石段をのそりのそりと登って行くと、門内から、黄(き)な法衣(ころも)を着た、頭の鉢(はち)の開いた坊主が出て来た。余は上(のぼ)る、坊主は下(くだ)る。すれ違った時、坊主が鋭どい声でどこへ御出(おいで)なさると問うた。余はただ境内(けいだい)を拝見にと答えて、同時に足を停(と)めたら、坊主は直(ただ)ちに、何もありませんぞと言い捨てて、すたすた下りて行った。』   『草枕』より


『円覚寺』は夏目漱石を尊敬する僕が鎌倉を訪ねたらどうしても立ち寄りたいと願っていた場所である。

実際に円覚寺の山門につづく石段の正面に踏切があって、やや古びた簡素な駅舎と調和するたたずまいでとてもよかった。夏目漱石とのゆかりを除くとさまで注目すべき寺院でないのだろうか、観光客がまばらで、観光地として整備されているかんじもなく、風情が感じられた。

石段を上がっていくと、「山門」が見えた。

DSC_0017.jpg


小説『門』の中に印象的なシーンがある。

『「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞えただけであった。彼はどうしたらこの門の閂を開ける事ができるかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中で拵(こしら)えた。けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成する事ができなかった。(略)彼自身は長く門外に佇立(たたず)むべき運命をもって生れて来たものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざそこまで辿(たど)りつくのが矛盾であった。彼は後を顧(かえり)みた。そうしてとうていまた元の路へ引き返す勇気を有(も)たなかった。彼は前を眺(なが)めた。前には堅固な扉がいつまでも展望を遮(さえ)ぎっていた。彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。』


とりわけ高い木立が日差しを遮蔽して、境内は凛としていた。禅寺にふさわしいひっそりとした雰囲気。

中央の仏殿の天井画の龍は今にも動き出しそうなほど躍動感があったと強く印象に残っている。

仏殿の左に座禅の道場があり、申し込みをすれば一般の参禅も認められているようだ。かつて夏目漱石や島崎藤村などの文人墨客が参禅したことでも知られる寺院というだけはある。しっかりとその本来の宗教的機能を果たし、文化も継承している。その裏側の砂利の階段を上っていくと境内を一望できる空き地に出たが、ほとんど何もなかったのですぐに後戻りした。

そのまま仏殿左のやや坂道になっている側道を歩いてゆくと、方丈とその後方に作られた庭園と道を挟んで妙香池があって、禅の世界から、より高尚な侵し難い領域への変化がある。ただし、それほどまでに手が加えられ、大切に管理されているというような格式高さは感じられなかった。奥には北条時宗の廟堂、国宝の舎利殿があったりと見所は多く、また由緒正しきことは疑いをいれない。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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