真の人格者というのは創作活動を積極的には行なっていない


『これらの詩には神様の御心を伝えるものはあります、天国の歌の遥かな反響位は聞えましょう。しかしアアネストさん。私の生活は私の思想と合致していなかったのでした。私は宏大な夢を持っていました。しかしそれはただ夢でした。というのも私が―しかも私の好みから―貧しい卑しい現実の中で生活して来ましたからです。時には―思い切って申し上げましょう。―私の作品が、自然の中でまた人生の中で、一層明らかにしたのだと言われている、雄大とか美とか善とかいうことに、私自身が信念を欠いていることさえあるのです。だから、あなたのように善と真とを純粋な心で求められていられる方が、その御目でごらんになって、あの神々しい大岩の顔に私が似ていることをお望みになっても、とてもそれは無駄なのです。』   『人面の大岩』ホーソーン著より


「言うは易し、行なうは難し」、「巧言令色、鮮(すく)なし仁」というように理屈や論理、概念で神性、善、真理を究めようとしてもそれははっきりいって詮無いことである。そうしたものの同質である心や精神のはたらきを用いることなくしてそれらを求めようとすることはそれこそ理屈や論理に合わないことだ。

僕が恐れていることは、詩や文学の創作活動、もっと根本的なことをいえば生活において美や善を形式によって追求して自己満足を得るのみで、実際の精神的向上や他者への善行を顧みないことだ。

たとえ素晴らしい詩を書いたとしても、優れた作品をつくりあげたとしてもその作者の人間性がそれらに劣らない、いやそれらの作品が所詮その人物の一面を表わしているに過ぎないというのでなければ重宝すべきものであるどころか、唾棄すべきものとなる。そうした意味で僕自身はまだまだ私生活において怠けたり、確かな優先順位を見極めることができなかったり、甘えがあったり、利己があったりと到底人格者というには及ばない。

考えてみると、真の人格者というのはそうした創作活動を積極的には行なっていないようである。宗教で人々に多大な影響と、人類を進歩へ導いた、たとえば孔子やイエス・キリストはその弟子がその言行を記したものが広く知られているのであって、彼ら自身が書いたものではない。結局のところ何かしらの報酬を求めているに過ぎないという面が否定できない(物質的報酬のみならず、やりがいや達成感のようなそれによって想起せられる感情)。だからそうした思考を少しずつ全体的な進歩というようなものにシフトしていきたい…。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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