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「絶望は不信仰を意味しているが、信仰のきっかけを与えてくれるものである」

『私はこんなわけで、前にふれた、聖書の「我をよべ、さらば我なんぢを援けん」という言葉をそれまでとはちがった意味に解釈するようになった。

以前には、自分がこうやって苦しんでいるとらわれの境涯から援けられる以外には、救いの名に値するものはなにもないと思っていた。

いかにも島のなかを私は自由に歩きまわることはできた。

けれども、島そのものが私にとっては牢獄であり、しかももっと悪い意味での牢獄であることは明らかであった。

ところが今ではそれをちがった意味にとるようになっていた。

自分の過去の生活をふりかえるときに、そこにはただ恐ろしさだけが感じられた。

身慄いするほど恐ろしい罪の恐ろしさが感じられた。

私の魂は喜びをすべておし殺してしまう罪の重荷から救われることだけを、ただひたすら神に求めた。

孤独な生活はもう問題ではなかった。

そのような生活から救われたいと祈りもしなかったし、第一考えもしなかった。

そんなことは、魂の問題に比べたら、まったく問題にもならないことであった。

私がここにこういうことをつけ加えておくのも、もし読者にして、ものごとの真実に徹した場合、その人は罪から救われることが苦痛から救われること以上に大きな祝福だということがわかろう、といいたいからにほかならない』   『ロビンソン・クルーソー』より


苦境に陥ってしまったとき、その考えられうる第一の原因についてひたすらに、固執して絶望してしまうものだ。

「僕は○○だから、もう希望がない」と。

しかしその○○はきっと、自分自身に目を向けることを教え、そして自分自身に目を向けることで初めて、その○○自体にも目を向けることが出来るようになる。

それらはそれまでの生き方では目に入らなかった事柄である。

その○○がどこからもたらされたのだろう?

と考えるとき、自分の考え及ばない、何か大きなエネルギー、神によって与えられたと考えざるを得ないし、そう得心するはずである。

私たちに絶望や苦痛を与えることというのは、実はたやすいことではない。

人力を超えた大きな力が加えられなければ、私たちを絶望に追いやることは難しいのだ。

絶望は限りなく不信仰、神やそのような世界をつくりたまいし偉大なる力を認めていないということを意味しているのではなかろうか?

絶望に陥ったのならば、それまでの罪深き不信仰を悔い改め、そしてそれによって真実に徹する信仰を得ることができるのだ。

人生や思想を間違ったものだと受け入れることは簡単なことではない、しかし信じることを知った人生のどれほど実り多いことであろう。

その瞬間から世界も人生も変るのだ。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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