最低限の正義


僕は友の涙をはじめて見た。

彼の名は善之といった。

彼は身寄りのものがなく、日々の生活に苦しかった。

何よりも貧しかったのだ。

それでもひたむきに労働に励んでは快活にしている彼を僕は少なからず尊敬もしていた。

ある日彼は普段やらない金庫番を任せられ、その日の売り上げの集計をチェックしていたところ、10,000円合わないことがわかり、その誤りの真偽とその出所を検証した。

入念な彼は金庫の投入口にあるわずかな隙間を見つけ、そこをその原因とにらみ、早速分解をしてみると、予想通りそこに一万円札のくしゃっと折曲がったものがあった。

しかし、驚いたことにそうした一万円札は一枚だけではなかった。

組織的なお金の扱いに不慣れな彼は、この事態を尋常でないと考え、すぐに先輩の元へ報告と指示を仰ぎにいった。

その先輩は分解された投入口を覗き込むと驚きの目をみはった。

善之は「やばくないですか?」と不安げに先輩に問いかけた。

彼は先輩を煩わせてはいけないと、投入口に腕をいれ、いくらかあるくしゃくしゃになった紙幣を取り出そうとした。

すると先輩は「おい、だすな」と彼を制止した。

その言い方は平静を装ったいやらしさを含んでいるように善之は感じた。

彼に取って代わって、先輩がゆっくりと手を投入口につっこみ、手探りで金勘定を始めた。

「5万あるぞ」

善之はなんてずさんな仕事をしている職場なんだ!と内心不満を感じた。

しかし先輩はそれほど良心的な考えをせず、狡猾にその事態を受け止めていた。

「おい、いくら足りなかったんだ?」にやりと悪そうに歯を見せながら先輩は聞いた。

「1万です」普段どおりに善之は答えた。彼は今後の展開をまったく予想できていなかったのだ。

彼は善良にできすぎた人間であった。

悪巧みや、ひとを陥れようという考えさえ抱いたことがない白痴のようですらあった。

善之の後輩が騒ぎを聞きつけてやってきていたので、そこには3人がいる形であった。

「4万を3で割るといくらだ?1万3千か」

先輩は不服そうに、手元の少ない札束を眺めた。

「1万ずつであと1万はじゃんけんだな」

善之は微笑しながら応じるしかなかった。

「おい、じゃんけんするぞ」と後輩に呼びかける先輩。

「なんのじゃんけんですか?」と事態を把握していない後輩が答えると「じゃあ、2万ずつわけるからいいよ」と先輩。

「やります、やります」と後輩も加わってのじゃんけんである。

結果はその後輩が勝ち、2万円をせしめた。

去り際に先輩が善之に「あのバカが2万とっちまったぜ」と悔しそうに顔をしかめた。

善之は運動部で青春を過ごしたため、上下関係に適するふるまいになれてしまっていた。

それが社会に出てからも抜けておらず、先輩は絶対であり、先輩に恥を欠かせるようなことはできないのであった。

彼は最初、先輩がそうしたずさんな状況を見て、適切な対処をとってくれるだろうと半ば確信していた。

だから、彼は真っ先に先輩のもとへ報告にいったのである。

ところがこれ幸いと会社に帰するべきはずの売り上げの一部を着服することを先輩は思いたったのであった。

しかしそれは、完全に明るみにならない、ばれない所業であり、罪であった。

それゆえに善之はその悪行を止めることに躊躇したのだ。

それは先輩を悪として扱うことであり、今後の業務に少なからず影響するきらいもなくはなかった。

悪を善で打ち負かすほど彼は強い人間ではなく、正しい人間でもなかった。

同時に、自分自身にはその悪に便乗することを断じて許さない真面目な人間でもあった。

彼は先輩が行ってから、こっそり会社の予備金として収める所定のところへ一万円札をねじこんだ。

できれば彼はその行動を後輩には示しておきたかった。

しかしそれは自分自身を先輩よりも善良にみせつける演技のように思われて、善之にはできなかった。

ただ、表向きでは悪を行いながら、自分自身に正直であるという自己満足に終ったのである。

彼は正義に泣いたのだ。

彼の先輩に対する信頼は失われた。

また自分自身がそうした罪のきっかけを与えたことを悔いた。

後輩も罪に荷担した結果となった。彼はそれほどはっきりとした頭脳をもってはいなかったのだ。

善之はもしばれたとしたら、罪を認めることを心に決めていた。

その結果会社を辞めなければならないだろうということを覚悟していた。

彼は最低限の正義を貫くことしかできなかったのである。

そして、たくさんのものを失うことになったのだ。

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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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