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『気持を軽くもてばなにごとにも堪えられる!
気持を軽く、か!
こういう言葉が私のペンから出てくるとは、笑わされるね。
おお、この体内にもうすこし軽い血さえ流れていれば、私は太陽の下でいちばん幸福な人間なのだがね。
やれやれ!
ほかの連中がわずかばかりの力量と才能をもって、いと快適に得々とわが面前を闊歩しているのに、この私が自分の力量と天分に絶望しているのか?
それを私にみなお恵みくださった親切な神さま、あなたはなぜその半分をとっておいて、その代りに自信と自足をあたえてはくださいませんでした!
忍耐をしろ!
忍耐を!
そのうちにもっとよくなるだろう。
まったく君のいうとおりだったよ。
毎日世間の人間のあいだを追いまわされて、かれらがすること、またそのする仕方を見るようになって以来、私は前よりずっと自分と仲がよくなった。
たしかに、われわれは何事をも自分と比較し、自分を何事とも比較するようにできているのだから、幸とか不幸とかは、けっきょくわれわれが自分を対比する対象次第のわけだ。
だから、孤独ほど危険なものはない。
われわれの想像力は、もともと高きを求めるものであるのに、さらに文学の空想的な幻影に煽られて、しらずしらずに存在の一系列をつくりあげてしまう。
そして、自分はその最下位にいるが、自分以外のものはもっとすぐれている、他人は誰でもずっと完全だ、と思いこむ。
これは自然の傾向だ。
われわれは、自分に多くのものが欠けていることをしきりに感ずるし、自分に欠けているものは他人が持っているような気がするものだ。
そればかりではない、自分のもっているものを全部他人に贈物にして、おまけに一種のこころよい理想化までする。
このようにして、幸福なる人間像ができあがるが、それはわれわれ自身が描きだした架空の幻にすぎない。
これに反して、もしわれわれが微力ながらも、また労役にくるしみながらも、ただひたむきの働きをつづけてゆけば、われらはおのずと知ることができる。
このはかどらぬ舟足すら、帆をあげ橈をあやつる他人よりも遠くを行くことを。
さらに、かくて他人と歩度を合せひいては一歩先んずるとき、そこにまことの自己感情が生まれることを』 『若きウェルテルの悩み』より
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