世間の奴隷でなく、自分の主人であれ!


ときどき不思議に思うのだが、われわれは黒人奴隷制度と呼ばれる、野蛮とはいえ、北部ではやや縁の遠い人間の苦役のことが気がかりでならないほど―あえて言わせていただくなら―おめでたくできているらしい。

北部と南部をどちらも奴隷化してしまう抜け目のない悪辣な親方がいっぱいいるというのにである。

南部に奴隷監督がいるのはやりきれないが、北部にいるのはもっとやりきれない。

いちばんやりきれないのは、自分自身を奴隷にしている奴隷監督がいることだ。

人間の神性のことなど、よくも口に出せたものだ!

昼となく夜となく街道に荷馬車を走らせて市場に向かう御者を見てみたまえ。

彼の内部に神性の育つきざしでも見られるだろうか?

この男の最高の任務は、自分のウマに秣(まぐさ)をやり、水を飲ませることなのだ!

運送で得られる利益に比べれば、自分の運命などどうなろうとかまわないのである。

「世間の評判」という旦那に仕えて、馬車を走らせているだけではないか?

この男のどこが神々しくて不滅だというのか?

彼は身をすくめ、ひと目をはばかり、終日いわれのない不安にとりつかれている。

不滅で神々しいどころか、自己への評価、つまり自己の行為が勝ち取った評判の奴隷となり、囚人となっている。

もっとも、世間の評価などは、われわれがひそかにいだく自己への評価に比べれば、気弱な暴君にすぎない。

自分というものをどう考えるかが、その人間の運命を決定、もしくは示唆するのである。

[すでに奴隷が解放されている]イギリス領西インド諸島においても、こうした幻想と想像の自己解放となると、さて、いったいどんなウィルバーフォースがあらわれてそれを実現してくれるのであろうか?

また、最後の審判の日をひかえて、自己の運命へのあまりになまなましい関心をひとに悟られまいと、しきりに飾りぶとんの生地を織っている、当地のご夫人連のことを考えてもみたまえ!

時間をむだにつぶしても、永遠は傷つかないとでも思っているのだろうか?   『森の生活』より


そうなのだ。

僕は社会を論じることも、政治を論じることも、また他人を論じることもしている場合ではない。

自分を論じていかなければ、そして自分自身を自分の偏見や固執、固着から解放しなければならない。

僕はよく言われる、「世間体は気にならないのか?」、「それで恥ずかしくないのか?」と。

「自分に恥じて生きるのならば、世間に恥じて生きるほうがましである」

「世間や評判のために生きているのではない、自分の人生を生きるのだ」

Kさんの言ったこんな言葉を思い出す。

「隣に自分よりいい車を乗っているやつがいったら、その車に乗りたい、それよりもいい車に乗りたいと思うだろう。

だから金が欲しいんだよ」

僕はたしかに、Kさんから年長者とはいえ、侮辱されていたのだろう。

なぜお金をもっているというだけで侮辱されなければならないのか僕はわからなかったのだが、当然気持のいいものではなかった。

どうしてお金を持っていれば他人を侮辱してもよく、優越という権利をもつということがまかり通るのだろう。

しかしながらそれを侮辱ととっている僕自身がすでにお金というものの力を認め、納得しているのも事実なのだろう。

世間の奴隷、お金の奴隷、仕事の奴隷・・・とは悲しきことである。

世間の主人、お金の主人、仕事の主人・・・なんとすばらしきことであろう。

せめて、自分の主人でありたいものだ。

けっして他人の奴隷であってはならないと思うのだ。

ときどきふと思う、僕はそれ以前に両親の半奴隷なのかもしれないと・・・。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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