スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『放蕩』と『放浪』について、またその自任者の無資格


『〇〇と云う人に今日の会で始めて出逢った。

あの人は大分放蕩をした人だと云うが成程通人らしい風采をしている。

こう云う質(たち)の人は女に好かれるものだから〇〇が放蕩をしたと云うよりも放蕩をするべく余儀なくせられたと云うのが適当であろう。

あの人の妻君は芸者だそうだ、羨ましい事である。

元来放蕩家を悪くいう人の大部分は放蕩をする資格のないものが多い。

又放蕩家を以て自任する連中のうちにも、放蕩する資格のないものが多い。

これ等は余儀なくされないのに無理に進んでやるのである。

あたかも吾輩の水彩画に於(おけ)るが如きもので到底卒業する気づかいはない。

然るにも関せず、自分だけは通人だと思って済している。

料理屋の酒を飲んだり待合へ這入るから通人となり得るという論が立つなら、吾輩も一廉(ひとかど)の水彩画家になり得る理窟だ。

吾輩の水彩画の如きはかかない方がましであると同じ様に、愚昧なる通人よりも山出しの大野暮の方が遥かに上等だ』   夏目漱石著『吾輩は猫である』より


自分のブログに「放浪者」と冠している僕は放浪者ではなく、放浪者たる資格もないのだ。

芸人の有吉がテレビで

「本当の天然は自分のことを天然だとも、尋常でないことも自覚していないから、それこそが天然たるゆえんで、最近ちまたで話題のおバカキャラというのは天然でなければおバカなんていう品のいいものでもなく、ただのバカに過ぎない」

というようなことをいっていた。

天然とは元、欽ちゃんがジミー大西を形容するのに用いたのが始まりだそうだ。

「ジミー大西は天才ではなくて、天然だね」と言ったらしい。

これと同様に、『放蕩』―ある種類の人間にはとても魅力的で憧れるもの―は無意識に自然体で放蕩の中に揺蕩うことであり、才能のひとつであるといっていいかもしれない。

僕は生来真面目な人間であり、また臆病で小心者であったから『放蕩』する度胸も無関心もなかった。

いや、このように『放蕩』を分析し、概念をもっていること自体を卑しむべきであるが、『放蕩者』に賛意を送ることはできないのだ。

『放蕩』と『放浪』に明確な違いがあるのだろうか?

そして僕は『放蕩』を否定し、『放浪』を肯定するとはどういうことなのだ?

『放蕩』は頽廃的で自滅に進み、非生産、むしろ消費、破壊的である。

『放浪』は没社会交渉的で無頓着、無関心、超世界市民主義とでもいおうか、自然を愛し、時間や概念に縛られない。

僕はそれらを強烈に意識しながら、その解放を切望しているがためにブログにまでその言葉を記すのだ。

逆説的に、それが一層僕を縛りつけ、『放浪』から遠ざけ、偽りの自由の中へと僕を投げ込んだ。

『放浪』を意識するのではなく、演繹的にではなく帰納的に考え、自然を愛し、時間や概念を自分を感情に入れずに捉えること。

『孤独な放浪者の随想』

これはジャン・ジャック・ルソー著『孤独な散歩者の夢想』からほとんどそのままに借用したもので、オリジナルのほうがやさしさや、やわらかさをもち、字面やリズムも美しい。

しかしながら、僕自身、散歩者にはまだ早い、夢想するには若すぎる。

放浪者であって、そのつど浮ぶ随想をとどめておきたいと切に願ったのだ。

言葉のリズム、言い回しが認識においても、概念としても重要であることはもちろんだが、それ以上にその意味するところこそがもっとも大事であるだろう。

また、ルソーにあやかることは僕をつねに励ましてくれる。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

無料メールマガジン
メルマガ購読・解除
 
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

twitter
月別アーカイブ
最新トラックバック
最新記事
最新コメント
リンク
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。