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身辺を整理 人はいずれ土に鋤きこまれる 金ではなく思い出や全世界の享受


少し前に『森の生活』を助けとして人生、生活というものを考えてみたいということを書いたのだが、少しばかり時間が経ってしまった。

その間に、偶然にも当地に勤務が決まり、ここで生活を始めると高校の友人から連絡があり、途絶えがちであった交友がまた回復し、一層深まるのではないかという期待、そのためのスケジュール調整をしたり、デザインを勉強している友人が美術館へ誘ってくれたり、院生である友人はリフレッシュに散策へと僕を誘ってくれたり、大学の友だちとの鍋パーティがキャンセルになり、デートをせがまれたり、その結果は散々なものだったが・・・

今日もまた仕立ててもらった礼服をとりにいったり、ホワイトデーのお返しを探しにいったりしようと思っていて、なかなか落ち着いて精神向上に勤しむことができない。

やはり平凡に過ごしているようで、毎日それなりにできごとがあり、それを綴るだけでも素材に事欠かないのかもしれない。

ブログを書くことを通じて、高い識見の持主と接する機会を持つことでき、大いに得るところが多く、より以上を期待することもできる。

他者との深い交流に加え、それを素材として思考の中に取り入れ、精神を発展させようと努力したり、あるいは書物を通じて、それを雪が粒子から結晶する如く、核として思想を抽出しようと試みたり、あるいは美術館や風景などの刺戟によって霊感を呼び覚ましてみたり・・・

いろいろな方法によって思想を発展させることが可能であるし、それらをすることで柔軟な発想も得られることであろう。

さて、『森の生活』の中で著者ソローは

『私が語りたいと思っているのは、皆さんの置かれた状況、とくにこの世界、この町に暮らすひとびとの外面的な状況や境遇はどうなのか、今日のようなひどい状態はどうしても避けがたいものなのか、なんとか改善する道はないのか、といったことである。

私はいままでコンコード村をずいぶん歩きまわってきたが、住民たちが、店や事務所や畑などいたるところで、ありとあらゆる難行苦行に明け暮れている様子を見て、ただただ驚くほかなかった。


私は、農場、家屋、名や、家畜、農具などを親から相続したために、かえって不幸になった、わが町の若者たちを知っている。

こうしたものは、相続するのはわけないが、手放すのはむつかしいからだ。

いっそ彼らが広い牧草地で生まれ、オオカミにでも育てられていたら、自分が汗水流すはめになった畑とはどんなところかを、もっと曇りのない目で見抜くことができただろうに。

だれが彼らを土地の奴隷にしてしまったのか?

なるほど、ことわざに「人間は死ぬまでに恥辱の泥を1ペックは食わされる」とあるが、それにしても、60エーカー分も食らうとはどういう了見なのか?

生れ落ちるなり墓を掘りはじめるとはどういうわけなのか?

こんな重荷を引きずりながら、彼らは一生あくせく働き、やりくりしていかなくてはならないのである。

不滅の魂をもつたくさんの人間が、奥行き75フィート、間口40フィートの納屋と、決して掃き清められることのないアウゲイアスの家畜小屋と、耕地、草刈り場、牧草地、森林からなる100エーカーの土地をひきずって、あわれにも重荷に押しつぶされそうになりながら、息もたえだえに人生の道を這いまわっているのを、私はいくたびこの目で見てきたことだろう!

こうした不必要な相続財産にわずらわされない裸一貫の人間だって、わが身ひとつを開墾し耕作するには、ずいぶん骨を折っているのである。

だが、人間の労苦は誤解から生まれるのだ。

人体の大部分はいずれ土に鋤きこまれ、肥料にされてしまう。

ところが、世間のひとびとは、一般に必然と呼ばれている見せかけの運命を信じて、むかしの本にもあるとおり、虫と錆にやられるか、盗人が押し入ってさらっていく財宝を積み上げることに汲々としているのである。

これは愚か者の一生である。

そのことに、彼らははじめのうちは気づかなくても、生涯の終わりには気づくであろう』


と著書の始まりのほうで語っている。

僕が両親に施された最大のものは教育であり、学歴であったように思う。

我が家は豪邸というわけではなかったが、裕福の部類に入る家庭であった。

衣食住、すべてにおいて不自由した経験はなく、生まれたときから当然の如く住む家があった。

そして両親は子供たちを大学までは絶対に行かせようとひそかに決めていた。

兄弟みな高校は普通科へ通い、それぞれの学歴にあった学校に進学した。

奨学金を借りることなく、子どもたちを学校へ通わせることができるのは、やはり裕福な家庭であったからというよりほかないし、その証拠だと思う。

そうして自然に与えられた学歴というものですら、手放すことがむつかしかった。

想像力によって、それがあれば人生に有利に働くと思い込んでしまっていたのだ。

相続遺産にしても同じであろう。

土地を所有していれば、売ることもできるし、何かに有効活用できると思って、重宝がってしまうのだ。

実際はその税や維持費などがかかり、デメリットも多く存在する。

常に身軽でいることが、幸福への第一条件ではなかろうかと思う。

何かを手に入れることよりも、それを維持することのほうが数倍難しいというのはよく言われることであるし、獲得すること、もらうこと、拾うことはたやすいが、捨てることには面倒がある。

捨てる場所やその捨てたものの行く末など副次的なことを考えなければならないからだ。

『裸一貫の人間だって、わが身ひとつを開墾し耕作するには、ずいぶん骨を折っている』

日々に忙殺されているとつい忘れてしまう、自明な事実。

自律することは困難で、それこそ成功への法則であるようにも思うが、教養を備え、思いやりを持ち、正しき信仰を持つようにわが身を開墾し耕作することはなかなかできるものではない。

毎日をそれに費やしてもいいくらいそれを達成することは偉業である。

『身辺を整理し、身軽にすること』

これを気にしながら、日々の生活を見直してみよう。

すると、気がつくだろう、自分がどれほど不必要な重荷によって煩わされているか!

周りの多くの人たちが「人生は苦しい、つらいものだ」、「不景気で仕事もろくにない、お金もない」

というのを聞いていると、それが常識、普通だという錯覚に陥り、自分の中で誤解が生まれる。

苦しい、つらいなど否定的な、ネガティブな状態は、つねにその裏の楽しい、幸せという状態を含んでいる。

幸福の条件が満たされないことを人は苦しい、辛いと感じるのであるから、もう一歩のはずなのだ。

なのに、その誤解によってその可能性は奪われ、労苦が生じるのだ。

自分の目で、確かめ、実際にとことんやってみてから結論を出しても遅くはないではないか。

僕たちはだれもが近いうちに土に返る。

そして苦労して得たお金は墓場までももっていけないし、あの世にも、来世にももっていかれない。

そんなお金のために費やす時間があるのであれば、友だちとの思い出の一つでも増やしておいた方がいいであろうし、すばらしき世界を享受するための教養と感性、感受性を鍛え、獲得することに力を注いだ方がよいであろう。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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