『良心』という名の奇蹟 善と美


『フョードルによれば、屋敷番のキリーロフは自腹を肥やすために生きているのだ。

それはよくわかるし、理屈にも合っている。

われわれはみんな理性をもっている生物なんだから、自腹を肥やすため以外の生き方なんかできないのだ。

ところが、いきなり、その同じフョードルのやつが、自腹を肥やすために生きるのはよくない、真理のために、神さまのために生きなければいけないのだ、というと、おれはただちょっと暗示を受けただけで、すぐそれを理解してしまった!

いや、おれにしても、何世紀前に生きていた何百万という人びとにしても、現に生きているすべての人びとにしても―百章も、心の貧しい人びとも、この問題について考えたり、書いたりした賢人たちも、自分のあいまいな言葉で、同じことをいっている人たちも、だれもかれも、なんのために生きねばならぬか、善とはなんであるか、というこの一点だけでは一致しているのだ。

おれもすべての人とともに、ただ一つ確実な、疑うべからざる、明らかな知識をもっている。

しかも、この知識は、理性では説明することができないのだ。

それは理性を超越していて、いかなる原因も、いかなる結果もありえないのだ。

もし善が原因をもったら、それはもはや善ではないのだ。

もしそれが結果として、報酬をもてば、やっぱり善とはいえないのだ。

したがって、善は原因結果の連鎖を超越したものなのだ。

しかも、それをおれは知っているのだ。

いや、われわれはすべてそれを知っているのだ。

ところが、おれは奇跡を求めていた。

そして、おれを納得させてくれるような奇蹟に会わないのを、残念がっていた。

今ここに奇蹟がある。

しかもそれはつねに存在していて、四方からおれをとりかこんでいる、唯一の可能な奇蹟なのだが、おれはそれに気づかなかったのだ!

いや、これ以上大きな奇蹟がまたとありうるだろうか?』     『アンナ・カレーニナ』より

この物語の中で、こうした内情の描かれるリョーヴィンは異彩を放つと同時に重要な役割を担い、そのバランスを整え、この作品をただの人間関係、生活を営む上での問題や事態を描くというものから思想や真理性にまでその幅を広めている。

ここに描かれているものはまさに僕たちが常日頃からなじみのある『良心』というものに近いのではないかと思う。

善という概念のみならず、美もまた同様に僕たちの心に備わった奇蹟といえると思う。

自然や光はやはり美しいと原因を持たずともいえるであろうし、また美しいと思うことによって報酬が得られるということがありえようか?

美しいということには同様に原因も結果もない。

それ自身が僕たちに神性に触れたとでもいうような恍惚感をもたらし、それ以外の何者も存在していないし、感知することすらできない。

こうした今言われている奇蹟に気がつくということ以上の教育も道徳もありえようか?

ただ、このことに気づくのみでいいのだ。

僕たち全員に備わっている、慈愛の心、美しきものを欲する心を見つける手助けこそが教育であり、道徳である。

善を施したときの喜びに勝る喜びはないし、美しきものに触れたときの恍惚に勝る恍惚はない。

読書はときにその疑似体験を与えてくれる。

また変哲もない些事に美しさを添え、そのすばらしき側面を描き出してくれる。

日々善をなし、美を求める。

それこそ本来の人間にふさわしき振る舞いではなかろうか。

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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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