個人も分業しなくてはならない

『きょうまで自分の生きてきたあの重苦しい、無為な、個人的で不自然な生活を、こうした労働に満ちた、清らかな、万人にとってすばらしい生活に変えることも、自分ひとりの意志にかかっているのだ』


『自分はだれにも腹を立ててはいない、だれにも侮辱されたとは考えていない、ただ、そっとしておいてもらいたい、自分はこういう立場が愉快なのだから、とでもいったような態度をとっていたのである』


『何事もしようと思えばできるのだが、ただなにもしたくないのだという、この独立心にもえる人間の立場も、しだいに、その箔がはげてきて、多くの人は自分のことを、ただ誠実で善良な青年という以外、なんの能もない人間だと評価するようになってきたことを感じていた』


『みんなは愉快に、のんきに働きたかったのであり、また、リョーヴィンの利害が彼らに無縁で、理解できなかったばかりか、彼ら自身の正当な利害と、宿命的に相反していたからにすぎなかった』


『人を楽しませることができるのは、その人が楽しいときだけだろう』


『いや、私は結婚反対論者じゃありませんよ。分業の味方なんですから。なんにもすることのできない人間は、せめて人間でもこしらえなければいけませんよ。その他の連中は、そうしてできた人間の教化と、幸福に協力すべきですね』


『詩は本来人生の些細ないざこざをなだめて、人びとが世界や自分の境遇に満足するように仕向けるために与えられているのだ』


現代の一般的な生活とは、まさにこういった不自然な生活ではなかろうか。

青年期までは、ひたすら学歴をつけんがため奮闘し、そうして獲得した学歴を携えて、できるだけ労働とは縁遠い、ピラミッドでいう上段を占めるような会社、役所に就職しようと競争する。

そして勝ち得た職場で、続いてはより権力と自由、報酬のある上役への昇進のため仕事に励む。

なんと重苦しく、無為で、利己的な生活だろう!

なぜ、労働を考えることは幸福を考えることであるということに気がつかないのだろう?

楽な仕事に喜びはなく、利益、合理に従うのみの労働もまた喜びを与えない。

対人間、肌を感じる仕事、自然を感じる仕事は気がつかなかったなにか、人間的な結束力のような心地よさをもたらす。

僕にとって、大学生活がまさにこのような不自然な生活であった。

役に立ちそうもない講義の連続を無為に過ごし、しかもそれはよくわからない卒業のためなのだ。

そういうことではないんだ、単位を気にし、労力や過ぎ行く時間、学費などとの価値比較をどうしてしないのだろうか?

一言で、すべてもったいない!

大学を去った後の生活はやはり、意味のある生活のようだ、人間的な、幸福感の伴う生活だ。


そんな僕を教授たちはおよそ下らない、といわんばかりに渋面をつくって僕を諭した。

両親をはじめとした周りの大人たちは叱責するように、そんなことではだめだと侮辱交じりの言葉を放った。

僕は懸命に、侮辱されてはいない、間違ったことはしていないのだと思い込もうとし、あえて愉快だという態度を持していた。

一方、大学の無意味さ、空虚さを感じていた友人たちは僕を励まし、感心するものさえあった。

その違いを大人たちは愛情に帰着させた、なるほど友人たちは僕の人生に関係がないから無責任に肯定することもできようが、人生を親身に考える大人たちは将来のことなどを考えて、否定的であるということだ。

無為で不自然な生活を奨励する大人たちは一体なにを思い、考えて生きているのだろう?

人生をどのように考えているのだろう?

それを思うと、彼らがなんとも薄っぺらくみえるのだ。


さて、大学を辞め、就活の道が閉ざされた今、僕は何事もしようと思えばできるのだが、ただそうした現実的な働きをしたくないのだという立場である。

なにか芸術的で、文化的な働きをしたい、あるいは自由で気楽な・・・そんなことってありえるのだろうか?

次第に時が過ぎるにつれ、そうした態度は浅はかで恥じるべきものとなるであろう。

だから時を惜しんで、全力でなにかを見出さなくてはならないのだ。


経営者と従業員、教師と生徒など常にこのような関係性の矛盾は起きる。

やるからにはそれなりの報酬の保証、呑気に仕事がやれるのであればそれほどありがたいことはない。

会社で考えれば、会社に利益をもたらしてはじめて給料がいただけるのであるが、そこで働く一人ひとりの働き手にそうした実感というのがない。

これがモチベーションのあがらない一つの理由であろう。

ただ決められた時間、労働し、それを日々こなしていった結果として給料が支払われるという錯覚に陥っている。

これでは会社の好不調関係なしである。

透明性のある、小規模で直接的な会社や仕事というのが望ましいのではなかろうか。


人間の感情は容易に周囲の人に感染する。

それは驚くほど顕著であり、敏速に働く。

たとえば、このブログを読んで楽しんでもらおうと思うのならば、愉快な気分で書かなければならないだろうし、感動や恍惚を与えたいのであれば、心を込めて、自らが恍惚感に浸って、あるいはそのために情熱をささげて欠かなければならない。

僕はその後者を目指している。

もっともっとたくさんの人に読んでいただきたいし、それをきっかけに意見の交換や有益な情報を得られたとしたらすばらしいと思う。

それは望みすぎなところがあるので、僕はコツコツと書けることを懸命に継続的に書いていくということを励行したいと思う。


たぶん人には神から与えられた役割、適材適所というものがある。

子どもを産み育てる、社会の最小単位家族を形成するもの―これが人間の大多数であろう、あるいは社会に貢献するために時には孤独にさえ耐えなければならないもの。

極論を言えば、この世界に生きている以上、自分の最小限の社会である家族を守り、成長させるか社会や環境、未来のために役に立つような行いをするか、どちらかでないといけないんじゃないかと思う。

それは生きる意味を見出すことであるだろう。

自分の好き放題に生きていて、いずれふと思うだろう、こんな毎日を続けて僕は一体どうしたいのだ?

これでは生きていても生きていないのと同じではないか?

彼はおそらく、そんな生活を始めたのはぼう然と生きることは死んでいるのと同じだというような根拠の元だろう。

しかし、結果は同じところに帰結してしまっている。

ぼう然と生きることは他人のために生きることであり、社会のためでも家族のためでもないはずだ。

そこが矛盾の根本なのだ。

決して他人のために生きるような人生を送ってはいけないと思う。

家族か社会、未来や環境・・・そのための我が生命とすべきだろう。


詩を読むときの独特の心の満たされる感覚を味わったことのあるものはきっと世界がすばらしいものであるということに気がつくだろう。

詩に限らず、世の中には心を満たしてくれる、そんな魔法や宝ものが存在する。

それらは簡単に得られるものではない、苦労や修行、鍛錬、苦難と引き換えに得ることができるのだ。

それを生み出す詩人や芸術家は生みの苦しみを避けては通れぬだろうし、それだからこそ尊く、敬うべき存在となるのだろう。

ささいなことに感動や満足があるのだ、それを感じる清らかな心を持っていたいと思う。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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