楽しみを損わず、成長の手助けを 『ゲーテとの対話』

『技術と楽器構造が極度に発達して、最近の作家たちをどこまで引きずっていくものか、不思議な気がするね。

彼らの仕事はもう音楽の域にとどまっていない。

人間の感覚の水準をこえてしまって、こういうものにはもう自分の精神や心ではついていけないところがある』


『居間を異国風やら古代風の雰囲気で塗りつぶすのは、どうにも頂けないね。

それは、いってみればあけくれ仮装舞踏会をつづけるみたいなもので、結局その趣味に耽りきりの人間の、ためにならないどころか、芳しからぬ影響を頂戴するのがおちだろう。

私がこんなことをいうのも、そんな世界は、われわれが現におかれている活動的な日常と調和しないからだし、それが無内容な、うつろな心のもち方や考え方から生れたものとすれば、それは心の中にでんと巣くってってしまうだろうからね。

とある楽しき冬の夕べに、トルコ人に扮して仮装舞踏会に出かけてみるのもよいかもしれないが、一年じゅうそんな仮面をつけていたい人間さまというのは、一体どういう気なんだろうな?

おそらくもう頭がおかしくなっているか、じきにおかしくなる素質十分、といってよかろう』


『若い人の書いた作品は、やはり若い人にいちばん受けるものだ。

だから、世界の文化やよい趣味がいくら進歩したからといって、若者たちが、昔のような粗野な時期を脱却したであろう、などと考えたら大まちがいだ!

たとえ、世界が全体として、いくら進歩したところで、若者は、やはりいつの時代にも、最初の地点から出発し、個人として世界文化の進化の過程を順を追って経験していく以外にないのだ。

こうしたことに、いらいらするようなことも、もうなくなったよ』


『「ヨハネの祭の火を絶やすな、 たのしみをゆめ絶やすな! 箒は掃けばいつもすりへり 子供はあとからあとから生れでる」

窓から外を眺めるだけで、街路を掃く箒や、走りまわる子供の姿が、たえず消滅をくりかえしてはまたたえず若返ってくる世界の象徴として、われわれの眼に映ずるのだ。

だから、子供のあそびと、青年の楽しみは、時代から時代へとうけつがれ、根づいていくわけだ。

というのも、そのようなものが、大人から見れば、ばかばかしいものに思われようとも、子供はやはり子供なのだし、これはどの時代にもかわらぬものだからね。

だから、ヨハネ祭の火を禁じて、かわいい子供たちの楽しみをそこなってはいけないのだよ』     『ゲーテとの対話』より


日本製のテレビの業績がなかなか回復しない。

かつてはSHARPのAQUOSを筆頭に、優れた性能と人気を誇っていた、日本のテレビ。

テレビをはじめとして、映像には画質というものがつきもので、画質をよくすることが第一であっただろうが、それが今はもう一定のところまで来てしまった。

にもかかわらず、まだ画質向上に努めているみたいだが、もはや僕たち消費者の求めるところではないし、その違いもわからないほどになっている。

そのうち、デジタルカメラの画素数は人間の視神経細胞の認識よりも多くなってしまって、それこそ無駄な努力に陥ってしまいかねない。

また、ギターやピアノ、そういった楽器が電子化し、さまざまな音色を奏でることが可能になっている。

その結果、おそらく何万通りもの音色を出すことが可能になり、これはかえって演奏者や作家を混乱させるであろう。

可能性の追求はたしかに必要なのだが、本来の譜面での可能性の追求であって、科学的、技巧的追及で会ってはならないような気がする。


最近では家具、家電がとても安価に手に入るようになり、若い世代でも自分の部屋を自分好みに模様替えすることが容易になった。

僕たちはどういうわけか、美しくなければならないものを実用的に変えてしまったり、実用的であるべきものを外見重視にしてしまったりする。

自分の部屋や居間というのは、生活の中心であるので、実用性重視であるべきだ。

この頻度、というものが一つの実用性と耽美性?との指標になるかもしれない。

もちろん、この両立こそがもっともすばらしく、美しい。

それが現在求められるところのデザイン性といえるのかもしれない。

僕はある年収が1000万を超えるいわゆるお金持ちの人の家におじゃましたことがあるが、まったく生活感がなく、ソファーがくつろぐためのものではなく、置物となっていて違和感を感じた。

僕の本心には興味がないらしく、空想的なふわふわした話しかしない人でまた来たいとは思わなかった。

でも、現にお金持ちで漠然と満足してそうだからそれはそれでいいのかもしれない・・・。


「最近の若い者は・・・」というフレーズは一生聞かれることだろう。

これは間違いない真理であると思う。

僕はそんなものは無視するし、無理解なわからずやが発する言葉だと思う。

だからゲーテがいらいらするようなこともなくなったのはさすが。

世の中の問題のほとんどは大人になっていない幼稚な脳足りんの所業だろう。

僕たち若者はやっぱりそういった時期を過ぎなければいけないのだけれども、老成することに努めなければならないし、現にそれは可能だろう。

あらゆるものが便利になり、時間は短縮された。

にもかかわらず、青年期は伸び続けている。

これは望ましくない事態だが、努力によってはそうした大人のための準備期間を短縮し、人格形成が可能だ。

たしかに、『若きウェルテルの悩み』はゲーテ25歳の手によるもので、僕も大いに感激を受けた。

尾崎豊の『17歳の地図』にしても当時16歳の自分には鮮烈であった。

今考えると、そのときは今に比べたら粗野だっただろうが、結果としては洗練されていくためのいい浄化となったように思う。

こうした、すばらしき作品を大人は守り、子供や青年に与えていくべきなのだ。

そして若者はそれを素直に、心をひらいて享受する姿勢をとらなくてはいけない。



そのときそのときに必要なことはやはりある。

子供は遊ばなければならない、ゲームをしたり、けんかをしたり、いたずらをしたり・・・

僕はそうした子どもの時にある悩みをかかえていた。

僕はもっといたずらをすべきなのではなかろうか?もっと自然と触れ合わなければならないのではないか?

親世代と自分たち世代の遊び方などに悩んだこともあった。

こんな遊びはいいだろうか?もっと違ったおもちゃのほうがいいのではないか?

少し変った子供だったのだろう、でもやはり今でもそうした気持は変らない。

こういう学生生活でいいのか?常に懐疑的であった。

寛大な大人たちよ、僕たちの楽しみをそこなわず、成長の手助けに努めておくれ。

濃厚な楽しみであれば、きっと成長も進むだろうから。



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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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