言葉のすさまじきエネルギー 『ゲーテとの対話』

『やたらに定義したところで何になるものか!

状況に対する生きいきした感情と、それを表現する能力こそ、まさに詩人をつくるのだよ』


『研究者や作家のひとりひとりに性格の欠けていることがわが国の最近の文学の諸悪の根源だ。

とくに批評においては、この欠点が世間にいちじるしい害毒を流している。

真実なもののかわりにまちがったものをふりまいたり、あるいはみすぼらしい真実のおかげで、われわれにとっていっそう役立つ偉大なものを奪いとってしまうからなのだよ』


『たいていの人間にとっては学問というものは飯の種になる限りにおいて意味があるのであって、彼らの生きていくのに都合のよいことでさえあれば、誤謬さえも神聖なものになってしまう。

文学においても、事情は、これよりましというわけではない。

そこでも偉大な目的とか、真実で優れたものに対する純粋な感覚とそういうものの普及とかは、じつに稀にしか見られない。

他人を擁護したり、もてはやしたりするのも、結局は、自分がまた擁護されたり、もてはやされたいためなのだ。

だから本当に偉大なものは、彼らには不愉快で、そんなものは世の中から放っぽりだしかねないし、そうすれば、彼ら自身がそれだけ少しでも有名になるとでも思っている。

大多数がそうだし、少数の傑出した人たちだって大して変りはしない』


『どんなにあらゆる点で才たけていても、結局それだけでは世のためにもならないし、それだけでは少しも建設的なところもない』


『一体われわれは、何を知っているというのだろう、どんなに機智を働かせてみたところで、どこまで進歩できるというのだろう!

人間というものは、この世のさまざまな問題を解いてみせるために生まれてきたわけではない。

問題の発端がどこにひそんでいるかを探りだし、それから先は理解できる範囲内に自分をとどめておくべきなのだ』


『宇宙の運行を測るなどということは、人間業の及ぶところではない。

森羅万象の中に理性を持ちこもうとしても、人間の卑小な立場からでは、全くの徒労に終るだけだ。

人間の理性と神の理性とは、まるっきり違ったものだからね。

また、われわれは、いっそう高い格言を、それが世のためになるかぎりにおいてのみ述べるべきだろう。

それ以外のものは、自分ひとりの胸中にしまっておけばいい。

それでも、それらは、雲間にかくれた太陽のなごやかな光のように、われわれの行動の上に、その輝きを投げかけようとするし、また事実投げかけることだろう』     『ゲーテとの対話』より


少し哲学をかじったり、芸術にかぶれていると~主義、~派、また、ある程度学があれば定義というものに多少の親しみがあるだろう。

そして、陥りがちなのが人や事柄についてすぐに定義づけをしたり、分類、ラベル付けしてしまうことだ。

本人は知力を示しているつもりかもしれないが、まず人であれば失礼はなはだしく、またそんな単純に定義できるものではないことが自明であるから、愚かしくみえる。

そうした定義は得てして便宜上の条件として導き出される性質のものであって、定義に始まるものではない。

そんなことを的確に言ってしまうゲーテはやはり偉大である。


僕が史実をあまり信頼せず、また親しまないのは結局のところ疑わしきところは否めないし、そんな不確かなものから自らの思想や感情を導き出したくはないからだ。

常識や教訓となっている史実やエピソードからは大いに学ぶことが多いので、それは折にふれて学ぼうという姿勢は忘れないようにしているつもりだ。

上杉鷹山による米沢藩の立て直しや徳川家康の遺訓などである。

物知りを自任している人物に限って、こうした空気の読めない話をする。

「織田信長は自害したのではなくて、命からがら逃げ出し、その途中で死んだんだ」

「太平洋戦争のとき、日本は米軍にはめられたんだ、あたかも不意打ちを食ったようにみせかけるようにね」

そんなことを知って一体なにになろう?

教訓も、なにもあったものではないではないか。

織田信長は家臣の裏切りによって、太平洋戦争は日本がやはり帝国主義を強引に押し進めすぎた結果うまれてしまったのだ。

というような教訓としていたほうがいいように僕は思うのだが。


僕は学問のための学問を心底、嫌っている。

天下りなどと同様に卑しい体質だと思う。

学問は決して金のためにあるのでも、生活のためにあるのでもない。

真理を求める本能と精神、心、思考力、思想、世界を発展させるためになされるべきものである。

また、名誉のためでもない。

それがどうだろう、大学の名前、世間体、評価などなどのために世間は騒ぎ、学歴や功績を祭り上げる。

見るところはそこではないのに、どこをみているのだろう。

人間は足を引っ張り合うか、傷をなめあうことしかできないのだろうか!

一個人として、思想を発展させ、世界に発信し、行動する。

それにたいして正当な評価をするために受けても鍛錬する。

これが本当の発展ではなかろうか。


才能があるとか、技術があるとか、そういったことは相対的であるし、また視点や状況によってその基準は容易に変化する。

にもかかわらず、それに拘泥し、不自然にすがり続けるという不幸がしばしば起こる。

それは結局、結果や成績にしか価値を見出さず、関心をおいていないからだ。

あくまでそれらは二次的なものに過ぎない。

世界や人のためになにができるのか?ひいては自らのためになにができるのか?

それは技術や才能の有無とは別の大きな観点である。

なにをなそうと働きかけるか、それさえ間違えなければ建設的なことを行うのはたやすいかもしれない。


意味のない研究に時間を費やす研究者、学生がどれほど多いことだろう。

世界を知りたいという欲望に駆られるのは理解できるが、その前に僕たちにはやらなくてはならない使命のようなものがある。

それは、日々起こり来る問題をひとつひとつ解決していくことなのだ。

世の中には本当にさまざまな問題が転がっており、生まれてくる。

その処理をこなしていくことが僕たちのやるべき仕事なのだ。

そこにつながってこないような研究はひとまずおいておいた方がよさそうに思う。


『初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった』

といわれるように、言葉には秘められたすさまじきエネルギーがあると僕は信じている。

この言葉を使えば、人を励ますことも、幸福にすることもできるはずだ。

もちろん、言葉には時間を戻したり、人間を生き返らしたりできる力は持ってないので限界はある。

その限界こそ、人間の理性と神の理性を隔てているものであろうと思う。

それを簡潔に、わかりやすく飲み込みやすい薬のようにしたものが格言とよばれるものであろう。

詩人、文学者、作家、芸術家に限らず、言葉はだれでも使いこなせ、生み出すことができる。

内村鑑三も言っていたが、

生きているのであれば、自分なりの言葉でもって文学をやらなければならない。

そこには少なからず力と真実が込められるのであるから。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

無料メールマガジン
メルマガ購読・解除
 
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

twitter
月別アーカイブ
最新トラックバック
最新記事
最新コメント
リンク
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる