僕たちは最上の幸福へ 『ゲーテとの対話』

『重要なことは、けっして使い尽すことのない資本をつくることだ』


『有用な仕事に力を集中して、君にとってなんの成果にもならぬこと、君にふさわしくないようなことは、すべて放棄したまえ』


『この詩は美しい、と彼女たちはいう。

そのばあい、考えていることといったら、ただ感受性とか、言葉とか、韻のことだけなのだ。

けれども、詩の真の迫力とか感動とかいうのは、情景の中にあるのだし、モティーフの中にあるということには、だれも考えが及ばない。

このため、詩はどんどんつくられてはいるものの、モティーフはまったくゼロ、ただ感受性やひびきのよい詩句を使って、なんとなく詩がありそうに見せかけているにすぎないのだ。

大体ディレッタントや、ことに女性たちときたら、詩についてじつに薄っぺらな考えしか持っていない。

彼らはたいていただテクニックさえ会得すれば、それで詩の本質をとらえた完全な詩人にでもなったように思いこむのだ。

しかし、それはひどい誤りだよ』


『世の中は、いつも同じものさ。

いろんな状態がいつもくりかえされている。

どの民族だって、ほかの民族と同じように、生きて、愛して、感じている。

それなのに、なぜ、一人の詩人が、ほかの詩人と同じような詩をつくってはいけないのかね?

生活の状況が同じであるのに、いったいなぜ詩の情景が同じであってはいけないのかね?』


『実生活から取ってこようと、書物から取ってこようと、そんなことはどうでもよいのだ、使い方が正しいかどうかということだけが問題なのだ!』


『シェークスピアの歌がちょうどぴったり当てはまり、言おうとすることをずばり言ってのけているのに、どうして私が苦労して自分のものをつくり出さなければならないのだろうか?』


『われわれの目の前を通りすぎていく豊かで多彩な人生も、たとえはっきりした傾向が出ていなくても、それ自体でなんらかの価値があるといいたいね。

人間というものは、どんなに愚かで迷っていても、より高い手に導かれて、最後には幸福な目標に到達するのだ』     『ゲーテとの対話』より


『使い尽すことのない資本』とはなんであろうか?

簡単に言えば、目には見えない、形として表れないものであろう。

お金、商品、肉体、こういったものは使い尽くしうる資本である。

しかしながら、これらが実際の経済、資本主義では優位に立っている。

それは資本主義、経済が物流のもとに成り立っているシステムだからである。

そもそも、資本であるのに使い尽くすことがないとは矛盾ではなかろうか?

そのとおり、だからつくりことが難しく、それゆえゲーテは提言しているのだ。

『使い尽すことのない資本』、それは知識や性格、ふるまい、作法などだ。

資本といっている以上、それは他人や外界に対して献上されなければならない。

それぞれが献上される状態というのは、知識を教える、書物として書き留める、人間性、ふるまい、作法を武器として、接客やサービスの提供などである。

考えをめぐらし、工夫をすればもっと使い尽すことのない資本の例は浮かぶだろう。

これらをつくりだすこと。それは僕たちの真の使命とも言うべきものかもしれない。

僕たちは、それぞれがこの世界に役目と意味をもって存在しているのだから。


『仕事』が僕たちにとって、仕方がないからやるもの、我慢を要するもの、時間で区切られているもの、力を調整しながら取り組むものと暗黙のうちに、常識として決められていないだろうか?

仕事は前提ではなく、あくまで結果として生じたものであることを忘れてはいけない。

しかも、要求・需要が先立って、あるいは世界への本能的働きかけがもととなり生じるのだ。

これらが満たされるとき、成果が生まれるであろうし、有用な仕事といえるだろう。

とくに芸術家、若者、情熱をもっているのであれば、世界への働きかけ、しかも仕事といえるような働きかけに熱心に取り組むべきではなかろうか。

それは芸術的運動かもしれないし、政治的運動、民主的運動かもしれないが、なにか情熱や気力・体力をぶつける仕事を持つほうがよいだろう。


これは僕に詩に対して一つの重大なヒントとなった。

詩とはなんであるか?これはとても難しい問いだ。

詩は書くものではなく、浮かぶものだ。詩は詩情を持つことから始まる・・・

詩を説明する、詩に対する解釈を追究する。これらは詩本来のよさを損うことだろう。

うまく書こう、すばらしいものを書こうとすればするほど、技術に走り、理論を振るう。

とんでもない。

最も重要なのはモティーフでそれを適切に捉えられるかどうかなのだ。

どのように書くかではない、なにを書くかなのだ。

僕らはどうしても「どのように」を重要視してしまう。

「なにをきちんとやるか」言われてみれば、それは見落としがちだが、何かを成し遂げるときの道しるべとなりそうだ。


僕たちは高尚なものの反復や類似を嫌う傾向にあるように思う。

しかし、その反復や類似というのは決して論拠・根拠のないものではない。

むしろ、必然性がその内奥に隠されているはずなので、それをしっかりと捉え、正しき判断を下すべきであろう。

反復や類似、は普遍性、真理に通ずるものがあるであろう。

共通や類似に注目してみると新しき発見、またそれらを正しく認識するきっかけとなるであろう。


これは現代の著作権の問題に一石を投じる言葉であろう。

書物や文学、芸術の目的は金銭でも、名誉でもない。

ただ、万人に真理と博愛を広め、知識欲を満たし、独特の恍惚感を味わってもらうために本来存在する。

であるならば、それのための引用や模倣が正義に反するということになるのだろうか?

確かに、これは言葉の綾といってしまいそうな危なっかしさは否めない。

そうか!使い方の正しさが問題となっているのか!ゲーテ恐るべし。

僕はこうして名文を引用しているのだが、しっかりと検討しながらすすめていかなければならない。

正しき使い方、正義のもとに文章を物しているだろうか?


そのとおりだ。僕がなぜ書物を読むかといえば、この心の叫び、あふれ出す感情を「言葉によってつかみたいからなのだ!」

いずれ、自らの力で掘り起こしてみたいと思うが、それまでの力を獲得するには言葉の険しい山をいくつも登頂しなければならないだろう。

しかし、この満ちに誤りはないはずだ。

なぜなら、僕はたくさんの人物に何度もずばりと言われたからだ。

そのたびに僕の心は光を得、自分になじむのを感じた。


どんな人生も美しく、魅力に富んでいる。

すべてが光り輝くものばかりとはいかないだろう、けれど、そこには励まし、わずかな憩い、哀惜がうまれ、人々に力をもたらすであろう。

そうであるから、ぜひ万人がそれぞれの文学、芸術、告白を積極的に行っていくべきだ。

それは文字だけに限定されない。音楽、筆の限りではない。


僕たちは、最上の幸福へと導かれている。

この一瞬とてその足どりはとどまることはない。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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