天才と教師 天才と平等の矛盾 『車輪の下』より

『天才と教師連とのあいだには、昔から動かしがたい深いみぞがある。

天才的な人間が学校で示すことは、教授たちにとっては由来禁物である。

教授たちにとっては、天才というものは、教授を尊敬せず、十四の年にタバコをすいはじめ、十五で恋をし、十六で酒房に行き、禁制の本を読み、大胆な作文を書き、先生たちをときおり嘲笑的に見つめ、日誌の中で扇動者と監禁候補者をつとめる不逞の輩である。

学校の教師は自分の組に、ひとりの天才を持つより、十人の折り紙つきのとんまを持ちたがるものである。

よく考えてみると、それももっともである。

教師の役目は、常軌を逸した人間ではなくて、よきラテン語通、よき計算家、堅気な人間を作りあげる点にあるのだからである。

しかし、だれがより多くのひどい苦しみを受けるか。

先生が生徒から苦しめられるのか。あるいはその逆であるか。

両者のいずれがより多く暴君であるか。両者のいずれがより多く苦しめ手であるか。

他方の心と生活とをそこない汚すのは、両者のいずれであるか。

それを検討すれば、だれしも苦い気持ちになり、怒りと恥じらいとをもって自分の若い時代を思い出すのである。

しかし、それはわれわれの取り上ぐべきことではない。

真に天才的な人間ならば、傷はたいていの場合よく癒着し、学校に屈せず、よき作品を創り、他日、死んでからは、時の隔たりの快い後光に包まれ、幾世代にかけて後世の学校の先生たちから傑作として高貴な範として引き合いに出されるような人物になる、ということをもってわれわれは慰めとするのである。

こうして学校から学校へと、規則と精神とのあいだの戦いの場面は繰り返されている。

そして国家と学校とが、毎日現れて来る数人の一段と深くすぐれた精神を打ち殺し、根元から折り取ろうと、息もつかずに努めているのを、われわれはたえず見ている。

しかもいつもながら、ほかならぬ学校の先生に憎まれたもの、たびたび罰せられたもの、脱走したもの、追い出されたものが、のちにわれわれ国民の宝を富ますものとなるのである。

しかし、内心の反抗のうちにみずからをすりへらして、破滅するものも少なくない―その数がどのくらいあるか、誰が知ろう?』     『車輪の下』ヘルマン・ヘッセ著より

この文章を読んで、真っ先にわが国の若きカリスマ、僕も学生時代心酔した尾崎豊、彼は高校を中退し、その卒業式にライブを行った。

『卒業』には校舎の裏でたばこをふかしたことが書かれているし、恋やダンスホールの記述もこれらの年代とぴったり合っている。

最近ではiPhoneで知られるアップル社を創設したスティーブ・ジョブズ氏―彼は大学を中退した理由の一つとして「大学の教授よりも自分のほうが優秀なことがわかったため」と言っている―

や相対性理論を提唱し、天才と呼ばれるアインシュタイン―彼はよく先生に楯をついていたようで、「君がいるだけで僕の権威が損なわれるのだ」と言われ退学を勧められている―

あるいは発明王エジソン―彼は「君の頭は腐っている」と担任の先生に言われてたという―を思い浮べずにはいられなかった。

ほかにも歴史上のさまざまなここでいう国民の宝を富ませたこうした偉人たちはたくさんいるのだろう。

常に、この平等と繁栄、民主主義と発展という矛盾は存在し、多数派の平等や民主主義が幅を利かすだろう。

しかし、それでも僕たちはこうした才能、天才を黙殺し、可能性を摘み取ってしまわないように注意しなければならない。

そして最後に、僕自身これを読んで、自分の学生時代を思い浮べずにはいられなかった。

結局大学に在学し続けることが困難であったし、小、中、高、大と先生連と打ち解けあうことができなかったし、一部の先生とは和解すらできずにいるのだ・・・

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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