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聞かれなくなった<正直>や<真面目>

『「気をつけろったって、これより気の付け様はありません。わるい事をしなけりゃ好いんでしょう」

赤シャツはホホホホと笑った。別段おれは笑われる様な事を云った覚はない。

今日只今に至るまでこれでいいと堅く信じている。

考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励している様に思う。

わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。

たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。

それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。

いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世の為にも当人の為にもなるだろう。

赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。

清はこんな時に決して笑った事はない。大に感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツより余っ程上等だ』     夏目漱石著『坊っちゃん』より

『坊っちゃん』にでてくる、<正直>、『こころ』にでてくる<真面目>、これらは漱石の文学を考え、読む上で重要な思想的観点であると思う。

文学というからにはその時代のひとびとの様子や葛藤、普遍的な人間性がかかれていなければならないが、一見すると小気味よく、辛辣爽快で大衆小説の向きのある作品だが、やはりれっきとした文学である。

それはこの引用した文のように読者にきっちりと社会の矛盾や正義について論じていることから感じ取ることができる。

教育には、実学と教養、法と道徳というように区別されるような概念が存在する。

これはいずれも人生を生きていく上で欠かせない事柄であるのにもかかわらず、社会に近づくにつれ、教養より実学、道徳より法にバランスが傾くのはなぜであろう?

人間の基礎である義務教育においては並行するようになされる教育がなぜ、通じないような社会をつくりあげているのか?

明治時代、漱石はそのことを痛烈に感じたに違いない。

封建制度から、民主主義、社会を円滑にかつ発展的豊かにしていくためにどうあるべきかを問うたときこういった問題にぶつかったのだろう。

では現在についてはどうであろうか?

正直や真面目という言葉は本当に聞かれなくなった。

「正直であれ」、「真面目であれ」と真剣に説くことができる人間がどれほどいるだろう。

正義と不正、善と悪をあいまいにしていく社会に希望があるか。

学校の先生なんぞより、年老いたしわしわのおばあさんのほうがよっぽど立派であったりするというのは誰もが経験したことがある。

人生や社会を無関心に楽に生きていくために教育があるわけではない。

生活を豊かに、本当の意味での楽しみを持って生きていくために教育があるのだ。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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