絶対的基準の喪失による幸福

『世界は「楕円」である。

中心は1つではない、中心は偏在する。それはもはや中心ではない。

「中心の喪失」である、「中心の偏在」である。

世界を見る視線は1つではない、世界は複数の視線、視点でもって成り立っているのだという発見だ。

これによってチェーホフは狭隘な「一人称的世界」から解放されたのである。

ここからチェーホフは理念の喪失を嘆いたり、その現実に悲憤慷慨するでもない、ありきたりの「人間の条件」を受け入れる眼差しを獲得したのだといえるだろう。

もはやトルストイのような壮大な歴史的認識も、ドストエフスキーのような人間の全存在に切り込むような観念も形而上学もリアリティを持ちえなかった。

何が悪で何が善なのか、世界を明確に切り分ける基準はもはや存在しなかった。

チェーホフは述懐している。

<私たちには手近な目標も、遠い目標もありません。心のなかは玉でも転がせそうなほど空っぽです。

私たちには政治もない、革命も信じない、神もなければ幽霊も怖くはない。私なぞは死も盲目も怖くはない>』     チェーホフ著『かもめ』解説より

僕たちの世代は相対的、絶対的という言葉に馴染み深いに違いない。

なぜならば、中学生時代、通知表の評価が相対評価から絶対評価に変ったからだ。

それにもう少し勉強をした人たちは、アインシュタインの『相対性理論』、夏名漱石の『則天去私』という概念を知り、自己の喪失、中心、基準の偏在を理解できる。

正しき生き方も、正しき思想もない時代。

情報に溢れているが、その真偽のほどは明確ではない。

しかもそれをみなが理解しつつある。

人々は広い視野を持つようになるだろう。

いろんな生き方を模索し、さまざまな形態の生活を実現していくだろう。

道徳、宗教、法律、そういった縛りや権限から解放され、もっとシンプルに世界や歴史、人生を理解していくことだろう。

絶対の立場から、相対の立場、その相対の立場に立ったとき、初めて、その立場の理解や、絶対の概念の理解の不必要さに気づくだろう。

その状況をあるがままに受け止め、理解し、そのなかで円滑に行動する。

それ以外になにを複雑に、好き好んで考えるものがあるだろうか?

あらゆる惨劇は絶対的な基準軸が存在する世界における比較による不満や不公平によって生み出されているのだ。

その基準軸が失われ、比較が存在しなくなれば、僕たちはもっと幸福になれるだろう。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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