『一握の砂』と僕の思い出

『師も友も知らで責めにき 謎に似る わが学業のおこたりの因』

『学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず』

『盛岡の中学校の 露台の 欄干に最一度我を倚らしめ』

『神有りと言ひ張る友を 説きふせし かの路傍の栗の樹の下』

『石ひとつ 坂をくだるがごとくにも 我けふの日に至り着きたる』     石川啄木著『一握の砂』より


僕は高校時代、特に受験生である高3のとき、図らずもこのような経験をした。

先生や学業で切磋琢磨していた友人は僕に対して失望や意気地なさを感じたことだろう。

僕も当時は賢明に訴えようとしたが、一方でどこか隠そう、「わが学業のおこたりの因」を悟られないようにしようと取り繕っていた。

それに僕はわかっていた。

その「おこたりの因」が理解されないであろう、ましてや誤解を生んでしまうだろうと。

毎日が葛藤で、苦しく、出口が見えず、もどかしく、焦燥にかられた。

そんなことを思い出させてくれた詩だ。

草や葉の名前を記さずに文学や胸に響く作品ができるとは思わなかった。

僕の中で、花の名や表現、言葉をたくさん知って、使うことがいい文や詩だと思っていたが、そうではないことがわかった。

知らないということは、それに対する想像やぼんやりとした余韻による可能性、広がりを生み出す。

それをいかに心情や情景に即して扱えるかどうかが問題なのだ。

誰もが若き日、懐かしき思い出を再現し、当時の思いや感覚に身をゆだねたい気持ちになることがある。

そんなとき学校という存在の僕たち、そこを過ぎてきた大人たちにとって大きさに気がつく。

無邪気だったときの自分は学校と共にあった。友もまた学校と共にあったのだ。

僕も大学時代、Gと神、キリスト教について論じ合い、説き伏せようとしたことがあった。

まだまだ僕はあのとき未熟も未熟で、自分の知識を披瀝し、また頭脳の明晰さを顕示しようと躍起になって、ほかならぬ友を屁理屈を交えてでも説き伏せようとしてしまった。

そんなときのGは冷静で、柔らかに僕と対峙した。

僕には焦りやおごりがあったが、Gにはそんなもの微塵もないようだった。僕はちいさかったのだ。

啄木のごとき詩心を持ち、観察力、感性に優れ、人生を理解している人物でさえ、なるままに、あっという間に過ぎてしまったと実感するのだ。

できることならば、植物が根を張るごとく日を数えていきたい。

大きな事件や進展がなくとも、振り返ったときに空しさややるせなさ、苦い懐かしさを覚えてしまうように日々を過ごしたくはない。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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