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正しい行いにも良心の呵責

『それでおらたちはとぼとぼ歩いて帰った。おらも今までの元気は吹っとんで、なんだかクシュンとしたみじめな気持で、べつに自分じゃ何もしてねえのに悪いことをしてるみてえな気分だった。

でも、いつだってこうなんだ。正しいことをしたって、まちがったことをしたって、同じことだ。

人間の良心ていうわからずやが出しゃばって、なんでも人のことを責めやがるんだ。

もし人間の良心と同じわからずやの野良犬がいたら、毒を盛って殺してやりてえくらいだ。

良心なんてやつは、人間のからだの中でいちばん広い場所をとりながら、そのくせなんの役にも立たねえんだ。

トム・ソーヤーも同じことを言っていた』       マーク・トウェイン著『ハックルベリー・フィンの冒険』より


人道的あるいは道理的にまちがったことをしたときに良心の呵責を感じることはよくあるが、正しいことをしても良心の呵責があるというのは新しい発見だ。

こうした常識や先入観にとらわれないことが人生を自由に楽しむ上で重要であると思う。

日常で出会うさまざまな事象にはそれぞれに色々な人をとりまく利害関係が生じている。

だからこの正しいことをした場合の良心の呵責というのは、他人の利益を損なったことによる場合が多い。

たとえばパンを盗んだ少年を捕まえるとする。

道理的には、パンを盗まれたパン屋のために正しい行いであるその窃盗犯を捕まえるということは間違ってはいないが、その少年の身になってみれば、飲まず食わずでやむを得ずパンを盗んだのに捕まって、牢屋にぶちこまれてしまうのはやりきれない。

そのことを思うと道理的に正しいことをしたのにどこかすっきりしない。良心の呵責を感じるのだ。

逆に人道的にその盗みをはたらいた少年を見逃すことはその少年を生かし、自由の身でいさせてあげることなので正しい行いだ。

しかしパン屋に対してはその利益を損なうことに加担したことになり、罪の意識を感じざるをえない。

結局人道的にも道理的にも正しい行いをしたところで良心の呵責を感じるのが人間というものなのだ。


これを率直に言っているこの文章はすばらしい。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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