神の完全性 『我思う、故に我在り』

哲学は1つの遊びであると思う。

人間は脳を使うことを好む生き物だ。

脳トレやゲーム、スポーツにおける戦略など、みんなこれらを好きなんじゃないだろうか。

哲学もまたその類のものであるように思う。

文学は実際の生活に多分に役立つ―人間関係や自然の捉え方など―が、哲学に精通していたからといって、実益が生まれるかというと、そうとは考えづらい。

だから僕はあまり哲学を脳の運動、生活をすこし複雑にして楽しいものにするためのものくらいに考えている。

デカルトの『我思う、故に我在り』はまさに屁理屈というか、だから何?とつっこみたくなる。

『方法序説 第四部』ではこの命題に至る思考過程が記されている。(これを哲学の第一原理としている)

デカルトは『真理を探究するために、ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見極めねばならない』と考えた。

そうして、感覚、確からしく思われる数学、そして思惟が疑わしいものであることに気が付く。

感覚は錯覚のように僕たちを容易に欺くし、数学においてはもっとも単純な事においてさえ誤った推論がなされることがあり、自分がそれをおかさないとは言い切れない、夢のなかでの事柄が現実のように思われることがあることから思惟が常にはっきり確かであるとは言い切れない。

しかし、このように考えをめぐらし、正しくない、明らかではないと『考えている自分はどうしたって存在する』といわなければならない。

これが『我思う、故に我在り』である。

他にもこのなかには、

『わたしたちが判明に捉えるものが何かを見極めるのには、いくらかの困難がある』『疑うよりも認識することのほうが、真実性が大きいこと』というのもあった。

腹痛が起こっていることはわかるが、何によって腹痛が起こっているのかを見極めることは困難で、認識するということは根拠があるわけだが、疑うということは本当かどうか?という途中、結論に至っていないわけなので、当然真実性は大きくない。

こうした理解しやすく、実感のあることを証明しているデカルトはやはり優れている。

この哲学の第一原理によって神の概念が導き出されている。

自分が疑いを持っていること、これ自体がすでに己の完全性を否定している。

かつ、完全性をそなえたものに対する実感がある。

この完全性をそなえたものが神性であり、こうした認識を持つ自分は神性のなかに含まれ、私が疑ったり、認識したりするものは結果として神性に含まれることになる。

こうすれば矛盾が起こらない。

そしてまた、数学に対しては、数学が現実世界を含んでいないことからより数学的な真よりもこの神の完全性の真のほうがまさっている。

全てのものは疑いえるものだが、疑っている自分の存在を疑うことはできない、だから疑っている自分は存在する。逆に疑ったり、考えないとするならば自分が存在しているという根拠がなくなってしまう。

つまり自分の実体は考えるということである。

それから、自分がなぜ疑うのか?それは完全でないのではないか?と思うからで、その完全という概念こそが神の完全性であり、私はこの神の完全性のなかに含まれていて、疑っているものはほんとうに不完全なものなのか、完全であるが不完全である自分には認識できないかのどちらかであるのだ。

こうして、すべてのものにたいする結論が出されるわけだ。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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