人生は曖昧でいい

『私たちの言葉が、もっとも敬虔なものから非常に肉欲的、衝動的なものにいたるまで、さまざまに考えられる事態のすべてをいい現わすのに、愛というひとつの言葉しか持っていないのは、結構なすばらしいことではないだろうか。

こういうことは、一見曖昧に見えても、実はまったく明瞭なことなのである。

なぜなら、愛というものはもっとも敬虔な愛でも肉体を離れてはありえないし、どんなに肉欲的な愛であっても、そこには一片の敬虔さがあるからである。

洗練された親しみの表現であっても、あるいは激しい情熱であっても、それらはいずれも愛であることに変りはない。

愛は有機的なるものへの親しみであり、腐敗し分解すべく定めれられたものの感動するほどに欲求的な抱擁である。

カリタスの愛は、熱烈なる讃仰の情の中にも、また狂わしい情熱の中にも、たしかに宿っている。

意味曖昧?いや、愛の意味はむしろ曖昧なままにしておこうではないか。

意味曖昧というのがつまり人生なのであり、人間でもあるゆえんなのだ。

意味が曖昧だといっていろいろと心配するのは、たしかに情けないわかりの悪さだといわなければならないだろう。       『魔の山』より

  
たしかに僕たちは、肉体を愛するよりも、その精神を愛することのほうが、高尚で、優良だと思っている。

そこにこの文章は一石を投じるわけだ。時間や対象というものは尺度に過ぎないのだと。

感情や行動の根拠を僕たちは定めようとしたがる。

これはこういう理由で生じたのだ、あるいはこういうのを何々と呼ぶんだ。というように。

あらゆるものに対してこのように区切りをつけたり、言葉によって定義づけされる概念のラベルを貼って区別することは『情がない』といえるだろう。

日常というものを区切りや区別をつけずに生きてみること、人生を曖昧なものだとして、人間に本来備わっている純粋な感性で過ごすこと、これは日々の窮屈さから解放してくれるだろう。

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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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