長浜の町 慈しみを含んだ愛着を生活に伴うすべてのものへ

長浜への旅で私は己の旅の遍歴において大きな転換期を迎えたことに気が付いた。

黒壁スクエアの周辺は商店街あり、城下町あり、由緒正しき寺院ありと散策するには格好のエリアであり、長浜城、琵琶湖にも近く、もっと観光地として注目されてもよいスポットだと思わないではいられなかった。多くの情報を仕入れず、何の気なしに旅した私には発見と驚きの連続で、ずっと感動と興奮に包まれていた。

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しかしながら、その一瞬一瞬を切り取って単独に眺めてみれば、長浜でなくても出会えるような普段の生活の中でなじみのある風景であったり、気にも留めないような光景であったりするのである。そう、長浜の街は飾り立てられているわけではないが、よそ行きの薄化粧といった按配でどこか日常を感じさせる自然体を残している。私は初めて、旅をしながら日常を感じたような気がしたのである。同時に、日常の中で旅情を見出したような錯覚を起こした。なるほど、私の住んでいる町にも商店街があって、長浜の商店街と大きく違わないし、見方によっては魅力に富んでいるところさえある。このとき私の生活の中で、旅と日常のボーダーが取り除かれ、日常のなかに旅情と興趣を見出し、旅のなかに日常とあるがままの自分を発揮することが難しくないことに思われた。日常のなかに見出される感動。旅気分。旅をしながら、何気ない一日を過す贅沢―。以前よりも空を眺めることが長くなり、山や川を巡り、花々の美しさにみとれ、町や人の流れ、人々の生活に興味を抱くようになったのはそれからだった。町の歴史を調べたり、名前の由来やゆかりの地と呼ばれる理由への興味。私が単に年を取ったといえばそれまでかもしれないが、慈しみを含んだ愛着を生活に伴うすべてのものに抱きうるそんな希望がたしかに見えたのだ。
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「嫌われる勇気」 嫌われるより無関心 無視できない存在


「嫌われる勇気」という本が最近よく読まれているらしい。読まれてい”た”、過去形かもしれない。香里奈さん主演のドラマも放送中?していた?とのことだ。とにかく世間で関心を集めていることは間違いない。中二の頃の私ならずいぶんこのタイトルも響いたことだろう。そのころ、私はどうしたら人に好かれるか、同級生や同じ部活の部員と仲良くなれるのか、そんなことばかり考え、いい人になろうと努力していたからだ。嫌われるというより、私は好かれていなかった、孤独であった。だから友達と呼べる、そんな人が欲しかった。好かれるの対極にあるのが嫌われるということで、嫌われる勇気ということは好かれるという概念を前提としているが、いまの私に好かれるとか、嫌われるとかいう感覚はなく、とうの昔に忘れた、既に朽ちた概念であった。すっかり人間ぎらいになってしまって、できるだけ人とは関わりたくない、関わらないように生きているというのが本当のところだ。親切にする機会があっても、面倒なことになるんじゃないか、本当に親切になるのだろうか?そんな思いから差し伸べかけた手をひっこめることは日常だ。頼まれごとや、頼みごと、それを直接ではなく、業務的にあるいは間接的にやりたくなる。友人が不在の時をあえて狙って贈り物を届ける。予定があるときにあえて約束をして最低限の目的だけを果たせる算段をつける。私の主義、人生観に沿わない、視点・感性による判断を私は猛烈に批判するし、決して同意しない。私はそうした友人でも馬鹿げた発想や幼稚な主張にはイライラさせられるので、私の前では口にするなと憤慨する。「嫌われる勇気」、手に取ることさえ恥ずかしさを感じるが、できることならもう少し嫌われたい。そしたらもっと自由に気楽に日々を過せるだろう、今のままじゃ煩わしい人間関係が多すぎる。正確にいえば、嫌われるより、無関心でいてくれたらそれが一番かもしれない。いてもいないでもどちらでもいいようなそんな存在が理想なのかもしれない。だが一方で、私の発言や行動が自然と私を他者にとって”無視できない”存在に仕立ててくれたら気持ちがいい。このブログはそんな野心によって続いている気がする。
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トヨタ2000GT 国産車の傑作 愛車MR2


こんにちは。よろしくお願いします。

私は国産車より外車が好きである。細かい理由は置いておくとして、ざっくりいうと、デザイン性、操作性、エンジンのアクション、上品なインテリアなどに魅力を感じるからである。ただし、先述のRX-7のように素晴らしい国産車も少なくない。愛知県が誇る世界的企業「トヨタ自動車」、その歩みと自動車産業の歴史を学ぶことができる「トヨタ博物館」で私は今回紹介したい名車に出会った。

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ロングノーズと見事に調和した印象的なフォグランプ(マイナーチェンジによってフォグランプが小型化されたが、個人的見解だが、改悪と言わざるを得ない)。フォルムは古臭い感じはまったくしないし、日本らしさも感じさせる柔らかくて落ち着いた印象を与えるデザイン。カッコよさを前面に出そうとするような無粋さもない。

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美しい車の絶対条件ともいえるバックスタイル。現代の日本車ではほとんど見ることがなくなったシンプルでありながら、バランスよくデザインを終結している感がある。金属製のマシンであることを暗に伝える塗装も今では失われた趣である。デザインばかりではなく、エンジンや内装も高性能、高品質のようだ。しかしながら、最近のトヨタ車のデザインに私は満足できない。これほどの自動車を作った功績があるのだから、なんとかならないものだろうか。日本人は直線の使い方が上手くないと言われる。なるほど、街行く車を見ていると、高い技術をうかがわせる流線形に無理やり直線や平面を削りだしている感が否めないデザインが多いように思う。高品質であるだけに、デザインとブランド戦略がいまいちなのはもったいないと感じるのは私だけではないはずだ。

トヨタのスポーツカーの原点を知った私はさっそく、トヨタのスポーツカーに乗りたくなった。幸い、MR2を持つ機会を与えられることになったわけだが、こちらも素晴らしい車であった。

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MR2は日本初のミッドシップ2シーターであるようだ。運転席は飛行機のコックピットのようで、包み込まれるような体をうずめるような、ドライビングと向き合うのに最適な姿勢がとれるような構造になっている。シフトレバーも軽快でクラッチもスムーズだったので、初心者の私にもとても乗りやすかったことを覚えている。それより強烈だったのは法外な保険料w、最終的にまたしても金銭面がネックとなってしまった。浪人中だった私は、よくこの愛車で山道や田舎の一本道を攻め、かっ飛ばしたものだ。くすぶる心の何かを発散するかのように、何かを忘れ、吹っ切るために。コーナリングもターボ車ゆえ、加速性も抜群だった、今思えばよく事故を起こさずにすんだ、シートベルトを着用していたかどうかも怪しい、ロックンロールをはき違えたバカ者だった。あの頃の、無鉄砲で挑戦的な心はどこにも見出すことはできなくなった。車はその持ち主の人生を雄弁に語るといって過言でない。私と父の関係性が保たれたのも車の話題があったからこそ。私にとってはまさに相棒、単なる乗り物ではないのである。

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奢るより奢られる質(たち)  


こんにちは。よろしくお願いします。

Dさんとかつてこんな話をしたことがあった。

「有名人は基本的にすごく稼いでいるんだけど、その中でもお金持ちとお金持ちというわけではない人がいるのね、どうしてかっていうと、有名になるとそれだけ経費がかかって、たとえばスタッフさんや知人と食事をする機会も多くあったりして、そのときにやっぱりその有名な人が中心となってその食事が行われることがほとんどで、支払いもその人が全部することになるみたい。食事に限らず、有名になるってことはそれだけ関わる人やお世話になっている人がたくさんで、その方々に心づくしをしようと思うとどうしても金銭も必要というわけなの。他人から聞いた話なんだけど、井上陽水さんはそのお金持ちの部類に入るそうなんだけど、一度も支払いをしたことがないんですって。なんでも、支払いをしようとするときにはすでに誰かによって済んでいて、自分のお金をないのだそうよ。食事に限らず、本来払うべきタイミングのところで払わなくて済んでしまって、結果財産がどんどん増えていくということみたいね」

おそらく井上陽水さんはお金を払いたくないというわけではないだろう、しかし払わないで済んでしまう、周りが払おうという心理になってしまう、そういうことなのだろうと思う。一方で、芸人さんは先輩芸人が稼ぎに関わらず先輩が後輩におごるというのが決まりのようになっているといっているのをテレビで見たことがある。たしかに、自分のために使えるお金は限られているし、実際出費のほとんどは自分の為ではなく、直接的にも間接的にも他人のために使っているといえそうである。すなわち、他人のために使っているお金を節すれば、貯蓄しやすいということになる。

私がこんなことを書きだしたのは、社会人として自立をし、友人などと外で食事をする機会もだんだんと増えてきて、一つ気が付いたことがあったのである。それは、私の支払いの負担が総合的にみると少ないということである。私の経歴の当然の結果として、年上よりも年下との交流が多く、先ほどのルールに従えば、私が年下におごることが多くなるはずで、支払いの負担は全体として多くならなければならないのにも関わらずである。今日はごちそうするよ、といっても結構強めに断れることが多く―その場合、多めにだすと願い出て、なんとか了承してもらう―逆に、「ああ、いいよ払うから」と言われる場合にも私はそれを断るのだが、結局私が少し負担するという形におさまってしまう。なぜだか知らないが、このように「私が、払う」と言われる場合が多いのである。私が貧乏そうにしているから慈悲の念に駆られ、代わりに払うと言ってくれるのだろうか?あるいは、私がおごってほしいとねだっているような振る舞いをしているのだろうか?それとも、なにかリズムや行動がそのような気を起させるのだろうか?しかも、「今日はギャンブルで儲かったからおごるわ」なんていう話もしばしばなのである。Dさんの話ではないが、払わないで済んでしまう力?的なものがはたしてあるのだろうか。次こそはおごるぞ!と意気込みはするのだけれど、あまりおごる、おごられるという関係も望ましくないというのが本当のところでもあり、結果一人で食事をするのが気楽で最近そのような機会が増えた。しかし、やはり食事というものは誰かと一緒にした方が断然愉快である。もっとしっかりと稼いでいればこんなことにはならないのにと、自分の労働を恨むのである。
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ハンドメイドの日用品 黒壁スクエア 吹きガラス体験

黒壁スクエアを訪れた私にはもう一つ目的があった。吹きガラス体験である。ガラスへの興味を抱かせた出来事をここで少し紹介しておきたい。

ロビーというイギリス人と私はネットを通じて知り合った。彼は50歳を過ぎており、日々悠々自適に過ごし、世界中を旅しているそうだ。そして世界中のあちこちに友人がいて―現地で知り合う場合もあれば、ネットを介して知り合う場合もあり、私は後者のひとりである―、旅先でその友人たちと会うのが大きな楽しみとなっているという。数年前、日本の花火が好きだから見に行くのだが、一日どこか日本の街を案内してくれないかということになった。そして私たちは名古屋の街をぶらぶらしたのであった。このことは詳しく書いてみたいと思うが、とにかくそのときロビーがおみやげとして持ってきてくれたのが、イギリス製の色付けされたブドウやさくらんぼが彫り込まれたガラスの平皿で私はその美しさと形状のおもしろさにすっかり魅了されてしまい―デザインはいかにも西洋風といった感じでフルーツに品があるように見えた―日本のフルーツは愛くるしい感じだ、自分でガラスのお皿をつくり、それで食事をしてみたらきっと楽しいに違いない。そう思った私は、ガラス体験ができる機会をうかがっていた。

黒壁スクエアには、ガラスの街というだけあって、体験工房なるものがあり、吹きガラスをはじめ、ステンドグラスやトンボ玉など様々な体験教室があった。私は念願の吹きガラス体験をしたというわけだ。

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今でもこの時作ったお皿(サラダボウル)でサラダやグラノーラ、ヨーグルトなどを食するが、実においしい。このとき指導して下さったお兄さんは、黒壁スクエアの隣のギャラリーで作品を展示・販売しているプロの作家さんでなんとも贅沢な教室であった。お兄さんの言われるがままに手を動かし、むしろお兄さんに大部分、身を任せ、出来上がったものは鮮やかに多彩なマーブル柄がちりばめられ、均整の取れた器であった。灼熱で真っ赤を通り越し太陽のフレアのような輝きを帯びた液状化したガラスに息を吹き込むという認識としてはなじみの動作をそのまま再現し、手際よくふくらまし、口を広げ、形を整え、切り離せば、あっという間に完成だ。砂粒のような固形の塗料を液状のガラスにまとわりつかせることで色をつけるのはまるでマジックのようだった。自分の手で日用品をつくる、これはなかなかおもしろい試みだ。そういえば、Kは自分で作成した皮財布を愛用しているが、なるほど独特の充足感があるのだ。私も自分の日常に少しずつ自らのセンスと鼓動を交えていきたい、そんな風に思った次第だ。
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『道徳感情論』 私の精神の成長の記録


この世界には、”読むべき”ではなく、”読まなければならない”書物というものがあると私は思う。それは現代に生きる人々の義務であり、この世界の未来のための責任であると信じている。その一つに『国富論』がある。著者はアダム・スミスで、「見えざる手」はあまりに有名であろう。だが、岩波文庫で『国富論』を検索すると全四冊の大作であり、社会科学を意味する白帯、特に社会科学においては無知の私にとってはとても手の出せない代物であった。また『国富論』と経済学の双璧をなすともいえる『資本論 マルクス著』に至っては全九冊であり、もはや私にはこれを読破する時間も、体力も残っておらず、それを理解するには余りに貧弱な頭脳であるため、あきらめていた。

「知ってるか、アダム・スミスは道徳の先生だったんだぜ?『国富論』の前に『道徳感情論』を読む必要があるね。まぁ、それをしっかりと理解したうえで『国富論』に臨むことだよ。『道徳感情論』はたしかに『国富論』ほど有名ではないかもしれないが、アダム・スミスの思想の根幹にあるものはこちらに色濃く表現されているように思う。」

Pはこんなことを言った。『道徳感情論』か、調べてみると上下巻であり、なるほど道徳であるならば、経済を論じられるよりも理解できそうな気もした。

このブログはずっと文学作品の抜粋を冒頭にかかげ、そこから紡ぎ出された思索と思想をつづるスタイルをとっていたが、私がこの『道徳感情論』を読み進め、その最中も、読み終えたときも、私の得た感想というのは未理解であった。いかに私の知力が乏しいか、それを改めて痛感させる書物であった。私たちは基本的に経験によってしか理解することはできないのだと思う、だが賢い人間というのは経験をせずして、他者の言論を理解することができるのであり、ゆえに人生で得るもの以上のなにかを説明することができるのではないだろうか。知力の乏しい私が、さも分かったように文学作品を論ずるのは間違っている。私ができることと言えば、その書物によって何を感じ、どのように成長することができるのか、その可能性を見出すことでしかない。文学に親しむきっかけになればとの思いも確かにあった。しかしながら、それは益のないことのようであるし、私の成長を綴ることの方がよほど、文学的ではないだろうか。私は作家になりたいわけでも、思想家になりたいわけでも、宗教家になりたいわけでも、資産家になりたいわけでもないのである。自分自身になろうとしているようでもあるし、自分自身を凌駕していこうとしているようでもある。あるいは、自分自身を無に帰そうとしているようでもある。
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Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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