私の『中央フリーウェイ』 八ヶ岳倶楽部の贅沢なフルーツティー


荒井由実さんの『中央フリーウェイ』で描かれているのは『中央自動車道』の都心から八王子方面の下りの風景なので名古屋の私には現実的な風景として思い浮かべることのできないもので、この歌は外国の風景をうたった歌と大きな違いはないことになる。私たちが生きる世界というのは、結局のところそこに身心が物理的に存在した―心が物理的に留まることは証明のしようがないが―ことがあるかどうか、体験を伴った認識がある世界のことなのである。宇宙は存在しているかもしれないが、私にとっては神に近く、存在しているのかどうなのか、知りようもない。アメリカもまた然りであり、果してヨーロッパは本当に存在しているのだろうか、少なくともヨーロッパとして浮かべることのできるのは、テレビの映像や写真などの記憶を通してであり、それは不確かな私の生前の世界についての認識とほぼ同じなのだ。中部地方の人にとって「中央自動車道」は長野県に行くのに便利な高速道路で私も長野に行くときには必ず利用する。起伏やカーブが多いのが特徴で、長野県と岐阜県の県境には延長約8.5Kmの「恵那山トンネル」がある。開通当初は日本一の長さだったそうだ。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」、さながらに冬季は「恵那山トンネル」を抜けると真っ白に雪化粧した山間に道路が伸びている。長野県に行くといっても、たいがいは松本市や長野市方面がほとんどであるため、諏訪湖の手前にある岡谷JCTで「長野自動車道」へと流入する。中央道の旅はいつもこうして終わりを迎えていた。岡谷JCT以降、東京方面は未知で私の脳内地図からもすっぽりと抜け落ちていた。「白州蒸留所」への旅は開拓の旅でもあった。

蒸留所は二日目に予定していたので、初日は宿泊先である八ヶ岳周辺を訪ねることにした。八ヶ岳についての予備知識はなく、中部地方にまで知れ渡る名所もないようであったから、私は当てもなく高地ドライブを楽しんでいたところ、『八ヶ岳倶楽部』という一風変わった施設にたどり着いた。

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中に入ってみると、様々なギャラリー(植物、エクステリア、雑貨、布製品など)とカフェがあり、敷地のはずれには森の散策路といったかんじで自然遊歩道が造られていた。はじまりは俳優の柳生博さんがこの地を気に入り、自らの手で八ヶ岳のすばらしさを知ってもらおうと自らの手でつくりあげていったもののようだ。名を立てる人はやはり決断力や行動力が違っている。とりわけ驚いたのは、カフェで提供されている『フルーツティー』だ。

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クセのないさっぱりとしたインド産のニルギリという紅茶にリンゴ、オレンジ、メロン、キウイ、いちご、巨峰、レモンの7種類のフレッシュフルーツを贅沢に浸し、刻一刻と変化する味わいを楽しむなんとも優雅なティーである。まずリンゴのまろやかな酸味がして、オレンジの心地よい香りと柑橘系のさわやかな酸味が溶け込んでゆく。メロンは熱によって徐々に甘みを紅茶に溶かしこんでゆき、キウイやイチゴの酸味はいつのまにか甘味へと変化している。ときどきイチゴの香りが顔を出したり、上品な巨峰は決して消されることはなく、感じ取ることができる。値段も1~2名用で1728円と良心的だ。紅茶がフルーツの引き立て役となり、フルーツの持つ本来の甘味であったり酸味であったりを変化という対照によって独立したものとして味覚することができる。もちろんおいしかったが、それ以上に体験型スイーツといってもいい楽しい紅茶であった。
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友と私 決別かともに成長か 


いつも変わらない落ち着いた田舎の景色ですら、かつて一緒にそれを眺めたときの今は亡き友の生前の面影をいつまでも忘れ難いものにする。その友は散歩仲間で、いかに物寂しい静かな散歩道を歩いていても生き生きとさせてくれたものだ。風光明媚な自然の魅力に接するたびに、きまって彼のことが思い出される。山で亡き友の好きだったやまびこの声を聞くと、彼の声かと思ったり、亡き友が足繁く通った森に佇めば彼の魂と遭遇できるような気持ちになったりした。寂寥感の漂う丘に上がっても、あるいは哀愁の渓谷に分け入っても、やはり亡き友のことが思い出されるのである。気持ちのいい爽やかな朝などには、快活な微笑みを浮かべた陽気な亡き友の顔が心のなかに甦る。穏やかな夕べのひとときが訪れて、次第に夕闇が深まり静寂が辺りを包み込む頃になると、黄昏どきの心地よい憂愁に沈み込んで優しい口調で語った亡き友の声がふと聞こえるのだ。

どんな寂しい場所にいても、君のことを想って、とめどもなく溢れ出す涙の滴。

これ以上魅せられるものがないほど君を愛し、憐みの心が消えるまで君を悲しむ。

   『スケッチ・ブック』 アーヴィング著より



幸い私は友を亡くすという大きな不幸から未だ免れている。しかし、いずれ経験しなければならない、生きていることと同等の意味を持つ愛する人の死に私はときどき恐れおののく。人生の厳しさと過酷さを思い知る。

私は自分の友の顔ぶれを思い浮かべてみる。幼馴染、小・中・高・大、それぞれの同級生、部活動やその他活動の所属、バイト、会社、友人同士のグループ、その出会いの時期やきっかけ、形は様々だがなにかの縁があって親しみあっているのであろう。たとえば、この私の友を私を中心として、その周りに輪っかのようにつなぎ合わせ、私を取り除いてみたとき、彼らから私の存在、人間性を再現することはできるであろうか?類は友を呼ぶという言葉が示すように、彼らは私と共通する価値観や考え方を有していて、もちろんすべてが一致するわけではなく、友のそれぞれは全くタイプの違う人間で、それがまた一個人の複雑性を示している。彼らがそれぞれがもつ個性を選び取っていって、空っぽの人間に加えて行けば、私という個人を大体つくれるように思える、それほど友というのは不思議な存在なのである。

一方、彼らの共通点はどうだろうか?驚くことに、そのほとんどがまともな?職業についていない。私の出自、経歴から考えれば当然そうあるべき、トヨタなどの大企業、あるいはその関連企業、すなわち将来安泰(現代において安泰というものは大企業でもおそらく難しく、言い切れない)といえる企業や国家公務員(学校の先生以上の、官僚クラス)はおろか、学校の先生などの一般的な公務員(安定といわれる)もいないのである。簡単に言えば、まったく安定志向にないのだ。彼らは能力はあるはずであるのにもかかわらず(ひょっとしたら能力がないのかもしれない?)それでいて、社会的に成功しているのかというとそういうわけでもない。もっともこの年代で成功するなどということはほとんど考えられないことではあるが、しかしながら、私の友とはいえないまでも、知人のいくらかはすでに社会的地位を築いている者もいるのである。彼らは皆人間性の魅力に富んでいる。私は付き合っていて楽しいし、学ぶことも多く、誇りに思う。けれども、自分の現状に満足かと言われれば、もう少し状況を好転させられるはずである。どこに?どのように?もう少し自由で、負担の少ない、ストレスのかからない生活がありそうだ。そう、私が思うのは、付き合う人間を変えていくことで私の状況が変えられるはずであり、それは彼らとの決別なのか、それとも彼らとの成長にあるのか、現状に甘んじるのでなければ、ときに傷のなめあいになりかねない付き合い方にシビアに取り組みながら、自由への道を歩んでいく覚悟とその実践が必要なのではないか、私は最近強く思うのである。実際に、閉塞感のような、諦念のようなものが、私たちの間に漂っているような気がする。私のように強い向上心を持って善く生き、闘いの日々を送ろうとする者はいないようである。私は今日もひとり、書を読み、思考を巡らせ、ペンを走らせる。それではあまりに心もとないから、なりふり構わず世界に働きかける。
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Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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