新人賞を目指す男のブログ


Y君、あなたは伝道的観念が強い(キリスト教を他人に伝道するということを直接に指すのではない。)割合に自己生活の内省が深刻を欠いではいないであろうか。自己の生活について自信が強すぎはしまいか。自己の生活に威力を感じ過ぎはしまいか。試みにあなたの周囲を見たまえ。何処に肯定的な、自信のある、強い生活を送ってるものがあろう。淋しい、弱い、自信のない、大きな声を出して他人に叫ぶのは羞しいような生活をしてる人ばかりではないか。そういう強い、肯定的な、力ある生活を送ろうと思ってあせりつつも、出来ないで疲労するものもある。廃頽するものもある。はなはだしきは自殺するものもある。あるいは蒼ざめ衰えてなお苦しき努力を続けてるものもある。人生は限りなく淋しい。あなたは少なくとも寂しい思索家などのいうことに今少し耳を傾ける必要はないであろうか。私はそれについてある実例をあなたに示したい。私の友人はさんざん行き悩んだ末、芸術より外に私の行く道はないといって、学校も欠席して毎日下宿屋の二階に蟄居して一生懸命創作をした。そして二百枚も書いた。私はこの頃世に出る片々たる短編小説などよりどれほど優れてるかしれないから、完成さして発表してはどうかといっていた。ところがある日私がその家を訪ねて続きを見せろといったらもう止したといって淋しそうな顔をした。それは惜しいではないか。あれほど熱心に書いたのに、どうしたのだと訊いたら「君、私の生活にはちっとも威力がない!創作したって何になろう。」といって顔をしかめた。私はその時二人の間に漂うた涙のない、耗り切れたような悲哀と、また理解と厳粛とをあなたにあなたに味わせたいと思う。   『愛と認識との出発』 倉田百三著より



私はずっと理系の人間であった。世界はすべて数式で構築され、問題には必ず答えが存在すると信じて疑わなかった。けれども、精神と肉体に私は矛盾を感じざるを得なかったし、群像は説明不可能であった。数学的に思考しながら、常に不可解な人間生活を送らなければならなかったのである。私はどうしても仮想空間を準備して、条件付けをした上でなければ感情を有する個人として存在することができなかった、故に文学に没頭していった。ラプラス変換の有効性に数学的思考の転回を学びながら、ラスコーリニコフの危険思想に惹かれていた。来る日も来る日も、文学を携え講義に臨み、私は文学に熱中していった。次第に講義から足は遠ざかり、学校へは行くものの、向かうのは図書館で、昼食もろくに取らず、気が付けば日が暮れていた。学校へ何をしに来ているのだか、徐々に重なる欠席は文学と私を堅く結びつけ、社会生活を遠ざける結果を約束していた。世界には文学あるのみだ、現実世界がなんだというのだ、文学こそが私にとって世界なのだ。私は勢い込んだ。夏目漱石が処女作であるにもかかわらず「吾輩は猫である」を約36万字という驚異的なボリュームで物したことに驚愕し、どうあってもせめてボリュームだけでも同等の作品に仕上げなければならないと机に向かった。じきに原稿用紙は200枚に及んだ。貧弱で心もとない小説が、首の座らない赤子のごとき作品が予感される出来栄えだった。しがない一学生になにができるであろう!私は旅をしようと思った、私は働こうと思った、私は恋をしようと思った、私は、人間の生活というものを一からやり直そうと思った。

Kは言った。

「そんな背伸びをしたって始まらない。君の作品はたしかに未熟だ。しかし、思いがよくこもっている。読みながら、ひたむきな君の姿勢が伝わってくる。それは重厚な長編を書き上げたらみあげたものだ。だが、完成させてみることだよ。すべてはそれからだ。私は思うんだが、新人賞に応募してみてはどうか。原稿用紙200枚程度だ。」

新人賞は私にとって全く世界の外側にある出来事だったため、はっとした。新人賞を目指して小説を書く、これはなかなかにおもしろいではないか。新人賞の応募総数は非常に多いそうだが、どのような人物が新人賞を狙って小説を書き、日々奮闘しているのかということはなかなか知られない。一人の新人賞を目指す男のブログというのも悪くない。私は早速ペンを走らせた。
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一つの部屋に落ち着いてじっとしていられるために 日本は相も変わらず苦しみと悲しみに進んでいく


「人間の不幸は、ただ一つのこと、一つの部屋に落ち着いてじっとしていられないことからやってくる。ある男が、生きていくのに十分な資産をもっていて、わが家で楽しく過ごす術を心得ていたら、家を出て航海や要塞の攻囲に乗り出したりはしないだろう。あれほどの大金をはたいて軍隊の職を購入するのは、ひたすら町の外に出ないことに耐えられないからだ。社交や賭ごとのような気晴らしを求めるのも、ひたすらわが家に安住していられないからだ、云々」   『パンセ』 パスカル著より


私は旅に出るのが好きだ、そして読書するのがもっと好きだ。旅が心と体を解放するならば、読書は精神を解放する。私の生活にとってこの二つは必要不可欠なものであるが、しかし一つの部屋で落ち着いて満足することはできないものだろうか?たしかに退屈しのぎ、気晴らしに旅や読書をしているということは認める、だが、人生にとって有益なものとは果たしてなんであろう?仮定や前説ではなく、実験と結果によって私はものごとを判断する。そのため、運命の潮目を注意深く見極め、その時期に歩むべき人生行路というようなものをなんとか見出そうと苦心する。また、あえて過ぎ去った日々を区切って、そのそれぞれにピカソの「青の時代」のように意味づけをして、自らの人生にトリックを仕組む、するとわが人生が意義と目的をもっているような気になるのである。人それぞれ、各々の人生というものは波乱に満ち、ドラマチックなものなのだ。私は機をとらえて、「一つの部屋にじっとしていられないものだろうか?」という問題に取り組むべく新しい住まいを借り、独り、暮らし始めることにした。すると大きく労働と人間活動(快適に暮らすための雑事)と余暇のバランスが変化し、旅という気晴らしは外野へ追いやられてしまった。同時に以前ほど旅への憧憬を感じなくなったいた。読書は哲学的な気晴らしではなく、文字通りの気晴らしの役割をも担い始めた。一つの部屋に落ち着いてじっとしていると、経済状況など大した問題でなくなる、選挙で話題になる経済政策への関心がいよいよ薄くなっていく―なぜ日本は経済成長、経済成長と、経済の立て直しばかりを望むのだろう?政治の役割は経済発展である、というのが日本の考えかたらしい。道徳という言葉はすっかり聞かれなくなった。そういえば、今回の選挙で私は、「投票に行かない」という選択をした。日本は自民党の好き放題にできる国だ。たとえ、政権が自民党ではない政党に移ったところで(一般市民の投票によって)、具体的な政治活動に属する機関や団体が自民党と結束してしまっている(長年にわたって築かれた堅固なつながり)ため、政治は機能しないのである。トップの連中が問題なのではなく、その政治的土台となっている官僚や大企業、富裕層の思考が問題なのだ。経済が中心になるのも当然であろう、改憲云々もそのためであろう。とはいえ最大野党の民進党は看板変えたてで心もとなく、その他の政党はあまりに現実の政治体制からは飛躍しすぎている。よって私は投票を控えることにした(参議院選挙であることも影響している)。結果も、自民圧勝というのは火を見るより明らかであった。また、肌で感じていたのは公明党の躍進―公明党支持者の応援の力の入れようはいつも違和感を覚えるが、今回は以前よりも強く感じた。また、共産党を推す声がわが耳にまで届いてきたのには少なからず驚いた。根柢を揺るがすには至らないが、日本の末端でわずかながら変化が起きている、そんな実感を得た。一つの部屋に落ち着いてじっとしていることは、拡大解釈すれば政治に参加しないことでもある。国に流され、世界情勢に流され、その中で抗うことなく、受け入れていくことでもある。私は落ち着いてじっとしていられる空間をつくりだすための努力を惜しまず、身辺を整えていく。日本は相も変わらず苦しみと悲しみに進んでいく。
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忍野八海 空想上の日本の原風景 鮮やかなコバルトブルー


うららかな日差しが春の訪れを告げると桜を見にゆきたくなり、正午が待ち切れずに照り付ける夏の日差しは海渡る潮風を想い起こさせる。朝晩の強い冷え込みに木々が鮮やかに染まる姿を期待し、空から粉雪が舞ったら温泉が恋しくなる。

日本には四季があって、四季が四季たりえるのは自然がかくも著しい変化を見せるからである。このようにきっと日本人には四季を感じる心があるが、同じくらい富士山も日本人の心をとらえているにちがいない。私は富士山を拝む誉を得ない県民なので時としてその雄大で神々しい姿を拝みたくなる。

清水を過ぎ、富士市にさしかかるところであいさつ程度に垣間見えると、毎度のことだが想像していたよりも大きくて美しく、驚かされてしまう。 

現代人にとっては空想上ともいうべき日本の原風景、それがこの忍野八海に具現されている。

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赤富士やダイヤモンド富士、逆さ富士、三保の松原と富士など富士山は被写体として、背景として、主役、引き立て役、様々な姿で人々の目を楽しませるが、私は忍野の富士が一番のお気に入りだ。日本の国土の特徴と言えば、先ほどもあげたように四季があり、国土の大半を森林が占め、それゆえの豊富な清らかな水があること。この風景は日本の風土を見事に表しているのである。

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忍野八海は湧水地として知られ、長い年月をかけて濾過された富士山の雪解け水であるため高い透明度を誇る。澄み切った空や海をよくコバルトブルーと表現するが、よく晴れた日に水面を覗くとまさにその鮮やかなコバルトブルーを呈している。純粋な自然はこんなにも美しいのかと私は息を呑んだ。

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日本人にはあまり知られていない観光名所のようで、観光客のほとんどは中国や韓国からのツアー客のようだった。純日本的な空間でありながら、行き交う言葉は中国語や韓国語という独特な雰囲気で、日本よりも外国に住む人々の方が日本の魅力に鋭いとはよく言われるが、本当にその通りだなと肯かずにはいられなかった。こじんまりとしていて、華やかさはないが、利得にあまり汚されていない日本の和が残っている場所であった。
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われわれが自らの罪なくして受ける災害や苦痛は、おそらくその価なしに受ける多くの幸福の賠償である 相対性の時代

「彼は、ときおり物事がわれわれの意志に反して起こるということを、世界秩序に属するものと考えた。そして世界秩序がそのように出来ているということは、われわれの精神にとって結構な、しあわせなことだと思った。われわれが自らの罪なくして受ける災害や苦痛は、おそらくその価なしに受ける多くの幸福の賠償であるように思われる。これは自己完成の途上において、魂を浄め、強くするものである。」   『幸福論 (故ブリンツ教授の追悼文)』 ヒルティ著より



私は常日頃から自分よりも幸福で恵まれた人間はさまでいるものではないと自覚している。そこから導かれる義務は感謝と貢献であるわけだが、しかしその一方で、私ほど苦悩と煩悶の人生を宿命として背負う人間もまたそういないのではないかと疑りたくなる。幸福は目に見えることが多いが、不幸のほとんどは目に見えない。不幸がもしわたしたちの目に映り、私たちの心に読めるとしたら、わたしたちはこの世界に蔓延している不幸に愕然とすることであろう、私たちは隣人の不幸でさえも目にとめようとしない。

かつて福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と記した。それまで人間は不平等と考えられ、また実際に士農工商というように階級というへだたりがあり、差別・偏見が世間を覆っていた。当時の人々にとってどれだけその平等の宣言が希望となって響いたことであろう。平等の理念のもと、人々は奮闘し、日本は力強く成長していったのであろう、時は流れ、現代にいたると、人々はまた口々に世の中は不平等だと嘆いている。もはや利口ぶった人々にとって平等は幻想に成り下がり、不平等を彼らは世界秩序に属する不条理として受け入れている。だが、私はこの不条理にこそ希望を見出したい。根拠のない、道理に合わない幸福の与えられん可能性を求めたい。私たちが罪なくして受ける災害や苦痛を、その値なしに受ける多くの幸福の賠償であると理解し、それを期待すべきだ。希望のある苦難は必ず自己の魂を浄め、強くし、自己完成のよき糧となる。

今は、相対性の時代だ。私は科学を絶対的な指標として認めたくないが、むしろ、科学が人間的な潜在能力を損なっているとさえ考えるが、科学なくして相対性の概念を私自身、正しく認識できなかったように思う。科学はこれほどまでに認識の理解を深める。不平等から、平等、止揚によって相対と導かれるなら、相対に続いてある概念が台頭するかもしれぬ。
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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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