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読書の森を去り、新たな道を歩く


私は、森にはいったときとおなじように、それ相応の理由があって森を去った。おそらく、私にはまだ生きてみなくてはならない人生がいくつもあり、森の生活だけにあれ以上の時間を割くわけにはいかないと感じられたからであろう。おどろくなかれ、われわれはそうとは知らぬ間に、いともたやすく一本のきまった道を歩くようになり、自分の道を踏みかためてしまう。森に住んで一週間とたたないうちに、私の足は戸口から湖畔へと通じる小道をつくっていた。その道を踏んだときからもう五、六年たつけれど、いまでもその跡ははっきりと残っている。じつは、ほかのひとたちも、ついそこを歩くようになったために、消えないでいるのではないかと気がかりなのだ。地球の表面はやわらかく、人間の足あとを残しやすいが、精神がたどる道も同様である。世界の幹線道路はさぞかしすり減ってほこりだらけとなり、伝統や習俗には深い轍が刻まれていることだろう!   『森の生活』 H.D.ソロー著より



私が読書の森にはいったのは、数字と法律によって簡素、平面化された世界を色と奥行きを持った本来の姿に復元する技術を得るためであった。読書のために、学校を辞め、仕事に就かず、友人・家族をも遠ざけ、場所を選ばず、ただただ活字を追うことに没頭したのであった。自室、図書館、河川敷、森、海辺、近所の公園のベンチ、喫茶店…案外場所は重要で、空間的にも脳を刺激し、記憶の定着を促す気分と物語との雰囲気づくりである。注意しておこう、世の中が文学に疎いので文学に深くかかわることが有利に働くことはない。たいして読書をしたことのない人たちは読書なんて、時間をみつけるか、つくるかして少しずつでもできるではないか、と反論するだろう。しかし、文学はそんな片手間に生半可な気持ちで理解のできるものではなく、そんな読書は遊びか暇つぶしにすぎないのである。まとまった時間がなければ、文章を読み進め、それによって紡ぎ出される思索の糸を逃さないように繋ぎ止めつつ、自分の力で編み上げていく…という作業をどうしてなしえようか?その上、価値のある文学、人類の歩みを支え、人類を物語り続けてきた作品が数多くあるのである。おお、現代ですら、その数は膨大であり、私の寿命は望む読書の半分も許してくれないであろう!それが今後どんどん増加の一途をたどり、後世は文学をどのように扱っていくであろうか?宗教と戦争と科学しか語らぬ文学のみ選抜するであろうか?あるいは?

ブログを書き始めたのは、思索の糸で編み上げた頼りない思想の布切れを少しでも丈夫なものにしようとの思いからであった。文章にすることで思想は強度を増すはずであるし、発信することでその思想はエネルギーを持つのではないか、そんなことを考えたのだ。そして、読書の森を去る決心をした。私は勤め人として社会に出て、勤め人として社会に出ることは文学を志す道の途中、読書に続く通らなければならない道程と捉えている。読書でしか学べないこと、人との交わりでしか学べないこと、社会人として仕事や生産・消費の金銭のやり取りでしか学べないことがあって、このように生きてみなければならない人生が、文学を基準にしてみても多く存在することが分かる。人間が人間らしく生きるにはもっと複雑な生きなければならない多くの人生がそこに見出されるであろう。

読書の森の本の読み方は、小説と哲学書の主に二冊を並行して時間をかけて精読をするというものであった。しかし現在は、今まで読んできたものを、再読しつつ、新たな本も読み進めて、それぞれ大体四冊ずつ、計約八冊の読書体験が並行して行われている。主に再読はブログ記事を作成するための素材として、新たな読書は今まで通り精読というスタイルだ。故に、机上には常時十冊くらいの本が積まれてあって、積読は絶対にしない私には今までなかった状態である。読書の森を去り、新たな道を歩みだしている、そんな実感がある。
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小説の一節から引き起こされる私の思考


こうしていよいよ私の真昼が訪れた。今は私もそれを認めなければならぬ。だが、どうしようもない。おお、軽やかな私の青春よ、いざ仲むつまじく別れよう!快楽、悲哀、あまい苦悩、騒ぎ、あらし、酒宴、そのほか君が贈ってくれた一切に、私はあつく礼を言う。心から君に感謝している。おののきにつけ静けさにつけ、私は君を満喫して来た、……心ゆくまで。ああ、もう沢山だ!晴れやかな心を抱いて、今こそ私は新たな道へ踏み出そう。過ぎ去った生活からほっと一と息つくために。   『オネーギン』 プーシキン作より


こうして小説の一節から記事を起こすことができると非常にうれしい。私は岩波文庫しか読まないと言っていいほど岩波文庫党?だが、読む人は分かるだろう、その思想に関する書物として分類された青帯(物語ではなく、論文調がほとんど)は比較的記事にして論じやすい内容になっているので、ブログ記事の多くがその青帯から引出されたものである。青帯と言うと、私はかつての青本を思い出す。勉強法にこだわりを持つ者にだけ許される、”赤本か青本か”の議論。何の話かというと、大学ごとに過去の入試問題何年分かが一冊にまとまっている問題集で、全体が赤の装丁を赤本、青の装丁を青本と呼び、赤本は教学社、青本は駿台予備校が出版しているものだ。要は志望校の過去問演習を赤本と青本どちらをやるとより学習効果があるかの議論である。

話を戻して、小説の一節から引き起こされる私の思考は過去の体験に基づくことが多い。それは「失われた時を求めて」の中で、マドレーヌの味をきっかけにして昔のことが思い出されるのに似ていて、私の記憶の中の、人生でたいせつなワンシーンを思い出させてくれるのである。私にとってこの感覚が読書の醍醐味の一つであるのだが、他の人はどうであろう?確かに、正しい鑑賞者ではないかもしれない、間違った読書かもしれない、しかし、孤独の中にある私にとって共感以上の慰めがあるであろうか?しかもその辛く、厳しい日々をドラマチックに演出し、そこに希望と喜びを吹き込んでくれるのである。
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私はなぜ既存の宗教と信仰を恐れているのか 闇の中を歩んできた私

よき若者よ、まじめで、真実であれ。しかし、傲慢な心をもつな。無知でいられるようになるがいい。そうすればあなたが、あなた自身もほかの人もだますようなことはしまい。かりにあなたが、才能を磨いて、人々にむかって語りかける地位に身をおくことになるとしても、かならずいつもあなたの良心に従って語り、人々が喝采するかどうかというようなことに心をわずらわしてはならない。学識を誤ってもちいると不信仰を生みだす。学者というものは一般人の考えかたを軽蔑する。それぞれ独自の考えをもとうとする。盲目的な信心は狂信に導くが、傲慢な哲学は反宗教に導く。こういう極端をさけることだ。真理への道、あるいはあなたの心を素直にして考えるときそう思われる道に、いつも踏みとどまるがいい。虚栄心や弱さのためにそこから遠ざかるようなことがあってはなるまい。哲学者たちのところでは大胆に神をみとめ、不寛容な人々にむかっては大胆に人間愛を説くのだ。
おそらくあなたの味方になる者は一人もいまい。しかしあなたは、人々の証言をもとめなくてもすむようにしてくれる証言をあなた自身のうちにもつことになる。人々があなたを愛してくれようと憎もうと、あなたの書いたものを読もうと軽蔑しようと、それはどうでもいいことだ。ほんとうのことを言い、よいことをするのだ。人間にとってたいせつなことはこの地上における自分の義務をはたすことだ。そして、人は自分を忘れているときにこそ、自分のために働いているのだ。わが子よ、個々の利害はわたしたちをだます。正しい人の希望だけがだますようなことをしない。   『エミール』 ルソー著より


西洋文学に触れることが私は多い。特に私はフランス文学が好きなようである。ロシア文学を好んだ時期もあったし、ドイツ文学に魅了された時期もあった、けれどフランス文学が最も芸術的で人間的であるような気がして一番親しめるようだ。ところで、西洋文学は聖書から生まれたといっていいほど、キリスト教徒と切り離して考えることは出来ないのではないだろうか。ニーチェが「神は死んだ」と言ったように、人間の信仰の在り方を説いてきたのが西洋文学であると私は考えている。自然の摂理に忠実であること、数学・科学こそ絶対である、これらも歴とした信仰である。

一方、私たちは東洋思想と分類される仏教を信仰するのが一般である。その辺を歩いている日本人に「何か宗教を信仰していますか?」と尋ねると「あまりしていません」とか「一応仏教ですが、よくわかりません」という答えが多く返ってくるであろう。おそらくこの事実に西洋人は驚きを隠せないに違いない。信仰がないという意味がおそらく解らないであろう。キリスト教が多くの人に信仰されているのは、信仰の意味、生きることは信仰することに他ならないことを説いているからではないだろうか。「生きることは信仰することである」、このことに反論することは果たしてできるのであろうか?私の進むべき道は三つある。既存の特定の宗教を徹底的に信仰すること、自分のなかで教理を導き出し、新たな宗教を自分のうちに打ち立て、それを信仰すること、最後は、信仰しないで生きるということである。

私は正直に言って、第一の既存の特定の宗教に従い、それを貫き通すことは全くできていない、そのつもりもまったくない。なぜなら、ある宗教の経典を読み込んだ経験すらないからだ。そんな私がある宗教を徹底的に信仰しているとはありえないことだ。つまり私はなんとなく生きているだけだ。自分の信じたいものを信じ、(人は殺してはいけないとか「良心に従う」という具体性を持たないあやふやな概念を信頼し、もっとも「自然の摂理に従え」が私にとっての宗教なのかもしれない)習慣と常識の惰性で行動しているのだ。私たちは行動一つとるにしても信仰がなければ行えないということに気付いているだろうか?仮に信仰がなくても行動が行えるとしたら、なぜ私は朝起きるのであろうか?快楽を得ることこそが人間の義務と信じるから、人間としてあるべき姿だから、朝は起きるものだから、理由を考えたとき、そこにどうしたって信仰が生まれる。起きるから起きる、それこそ危険だ。だが、人間はそのくらいの危険を誰もがはらんでいる。殺したから殺した。つまりそれが通用するわけであり、ここに宗教がはたしてきた重要な役割がある。しかし、私にはキリスト教にも仏教にも、あらゆる宗教に満足できないという実感がある。理想主義といったらそれまでだが、この世界に完璧なものなど存在するのだろうか?ということなのである。どれもベターだし、またこの宗教よりもこっちの宗教の方が優れている、といったことはあるだろうが、ベストというものがあるはずがない。あったらおかしくはないか?それこそ世界はその瞬間、完成するのではないだろうか。現実は多くの宗教が存在し、ベストであるものが存在していないことを示している。ベストな宗教は宗教対立起こり得ないほど完璧であるはずだ。ありえないベストな宗教を私は求めているのか?それとも既存の宗教を信仰するほど人間の営みに本気ではないのだろうか?おそらく後者であろう。私はなぜ宗教と信仰を恐れているのか?不完全なものを恐れ、一層不完全なものであろうとしているのか?不完全なものを信仰するとしたら私は何を選べばいいのか?キリスト教?何故に?仏教?何故に?

私は人生の導き手を伴わずにこの人生行路を歩んでいることにいまさらになって気付いたのであった…

私は何を信じ、何のために、なぜ生きて行くのか?
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知恵の略奪者は知恵の運び屋

結局のところ、この剽窃癖が文筆家の骨の髄まで染み込んでいるのは、それなりに賢明な目的によるものではないだろうか。知識と知恵といった種子を最初に育苗した作物は必然的に朽ちるにもかかわらず、その種子だけは時代から時代へと播種して保存されるようにと神慮が働いているのではないだろうか。私はそのように考える。周知のとおり、自然は気まぐれに任せて、賢い方法で野鳥を介して土地から土地へと種子を伝播する。このように考えれば、動物は本来腐肉となり土に帰す存在であるし、また果実園や穀物畑を荒らす厄介な略奪者であることも事実だが、実際は自然の恵みを撒布して保存する役割を担う運び屋なのである。これと同様な趣向で、遠い昔に忘れられてしまった文筆家たちの美辞麗句を連ねた作品群は、こうした剽窃を旨とする文筆家たちの手に委ねられることで連綿と後世に伝えられるというわけだ。そして、ふたたび開花し、実を結ぶのである。それだけではない。そうした作品の多くは今世のみならず輪廻転生を経て、新たなフォルムを形成し、生まれ変わるのである。たとえば、以前はつまらぬ歴史書であったものが、ロマンス小説という形態へと変貌を遂げる。古い伝説が現代風の新たな戯曲として立ち現われ、堅苦しい哲学的な論文が小気味よい軽やかなタッチで綴られたエッセイとなるのだ。これはわが故国アメリカの森林地帯の開発にも似ている。格調高く林立する松林を焼き払った場所には、樫が芽を出し若木になって簇生(そうせい)するし、地に倒れて土壌のなかで朽ちる木の幹にはあらゆる種類の菌が繁殖するのである。

したがって、往時の文筆家たちが朽ちて、忘却の彼方へと消え去ったからと言って、そのことをことさら嘆く必要はない。彼らはただ自然の大法則に従っているに過ぎないのだ。その大法則によれば、この世の万事万物は存続の限界を有するものだが、その本質は永遠不滅であるということだ。動物も植物も世代から世代へと移りゆくが、その生命原理は後世に伝承されて種族の永久の繁栄をもたらす。これと同様に、ひとりの文筆家は新たな文筆家を生み、そして多くの子孫に恵まれ、しかるべき年齢に達すると、彼らの父祖、すなわち、その作品を盗用した文筆家たちと一緒に眠りにつくことになる。   『スケッチ・ブック』 アーヴィング作より



私はこのブログについて著作権の侵害だとか、まさに上記にあるように、知恵の略奪者、あるいは冒涜などと非難されたことがある。確かに引用と明記しようとも毎度毎度、文学作品の一部を―ときには今回のようにかなりの長文を冒頭に掲載し、まるで見出しのように宣伝効果を狙っているかのような構成になっているので作品の価値を利用してなんとかして利益を得ようとしているように見えなくもない。だが、私の本意はそんなことではない。アーヴィングが記したこの主張は多少私を擁護してくれるのではないだろうか、私は偉大な作家を汚す気などさらさらなく、ただ偉大な作家が残した言葉を多くの人に知ってもらい、できればそれが記されている作品を読んでみてほしいのである。それに加えて、100パーセントのうちのたとえ99パーセントが先人の言葉の引用や思想の受け売りだとしても、1パーセントでもオリジナリティのある新たな価値観や思想、知恵、そうしたものが生まれればそれは人類や世界にとって大きな意味を持つ。仮に、100パーセントがすべて他者による要素によって成立しているとしても、それによって生まれた混合物は本質は同等であったとしても異なる見方を引出すことにならないだろうか。また、私が記した思想や考え方が極端な劣化であったとしても、それは忘却の彼方に消え去って、引用部だけを読者は知識と知恵として吸収すればいいわけである。私が愚劣でひどく不徳な人間でも、今日まで連綿と読み継がれてきた傑作や名作を伝えていることだけでも意味があるはずなのだ。だからどうか、冒頭の引用部だけでも注意深く読んでもらいたい。私は文学の担い手でありたいと思う。残念でならないのは、私に文学の才能が無く、つまらぬ歴史書をロマンス小説へと華麗に変身させることはできないし、古い伝説を現代風の新たな戯曲としてよみがえらせることもできない、堅苦しい哲学的な論文を小気味よい軽やかなタッチで綴られたエッセイに仕立て上げることも不可能なのだ。これらに成功したら、どれだけ生の充足感に満たされるであろう。才能はなく技術もない、それでも文学が好きで、私は文学に関わることを欲する。思想は堂々巡りをするだろう、何度も同じ話を繰り返し、使い古された言葉を記すだろう。ばかばかしい、飽き飽きした、そう言いながら希望を語り、未来を嘆き、己を奮い立たせんとするであろう。
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hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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