スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ゲーテよりもシラーを愛するT氏へのプレゼント


子どものころ、クリスマスは一年のうちで一番すばらしい一日だった。夕食はごちそうで、そのあとに大きなケーキを食べて、目覚めると枕元にはプレゼントがあって、それを開けると中には欲しいと思っていたおもちゃが入っているのである。私はサンタクロースを信じていた子どもであった。ワクワクしながら、サンタクロースを一目見よう、絶対にのぞき見てやろうと、布団の中で眠気と闘っていたのが懐かしい。知らない間に眠ってしまい、気がつくと朝になっていて、しまった!と悔やむのだ。やがてクリスマスは恋人たちのものとなり、彼女のための日となった。クリスマスを楽しむのではなく、プロデュースする立場となってしまった。もしかしたら、子どもにプレゼントをする日もやってくるのかもしれない。とにかく日本的なクリスマスを律儀に毎年送っている。とうとう、今年は何人かの友人にもプレゼントを贈ろうという気を起した。プレゼントをすることはプレゼントをもらうよりも実は幸福感と充実感がある。僕はそのことを発見したのでもちろん財布と相談しながらということにはなるわけだが、また不自然でない程度にサプライズという遊び心で実行してみた。

1900_top_convert_20151231192540.jpg

まずT氏には、こちらの「PARKER IM」のシルバー/ゴールド。PARKERは歴史ある筆記具メーカーであり、矢羽のクリップの圧倒的な存在感をもつ矢羽のクリップは完璧なアイデンティティとなっていて、筆記具の有名一流ブランドといえるだろう。私にとっては、思い出のブランドでありながら、罪悪の証人でもある、運命的なアイテムである。T氏は大学の研究員であり、ドイツ文学を好み、ゲーテよりもシラーを愛する。サテン仕上げのボディーに金の光沢が映え、シンプルなフォルムの気品あるデザインからは知性とアイデアが感じられるこのボールペンは彼にぴったりだ。価格は安価であるが高級感さえある。プレゼントとしても非常に優れているといえる。これを導入として筆記具にさえ気を配り、愛着をもつような、品格のある学者として大成してくれたら幸いである。
関連記事
スポンサーサイト

文明は上書きされるのか 百貨店はおもしろい 


東京にある日本橋は日本の道路が始まるところ。私は中部の人間であるから、日本橋といえば東海道の始点であるから昔からなじみの橋の一つである。

IMG_0063_convert_20151228223318.jpg

”橋”は文明の象徴でもある。人類はその歩みの中で、様々な困難を克服し、不便を解消し、すなわち文明を発達させてきた。川は最も原始的な困難であったかもしれない。その克服が”橋”であり、それによって人々は川によって隔絶された交流を実現することができたのだ。人の交わるところに文化が生まれる。文明が人と人との距離を縮めるのならば、そこには必ず文化が生まれる。橋にはそれだけ物語が詰まっている。私は橋を眺めるとき、そこに描かれる人間模様を想像してみる。しかし、この日本橋はその人間模様を考えさせる暇なく、文明の歩みを宣言する。かつての文明である”橋”に空に浮かぶ道路網が覆いかぶさっているのである。石造りの二連アーチ、欄干には非常に凝った彫刻が施されている。とても威圧的な風格のある建造物である。それがトイレのタイルのような首都高の下敷きになっているのだから、なんとも切ない気持ちになる。

img_7_convert_20151228231735.jpg

こちら日本橋三越本店。中部では百貨店といえば松坂屋という人も少なくないと思うが、私にとっては三越である。なぜなら、母校である高校の近くに三越があり、よくそこで母に祝いのプレゼントを買ってもらったり、少し贅沢をして食材や衣料品など買い物したり、学校帰りに寄ったりした思い出があるからである。パンなども田舎では見たこともないような大きなフランスパンや総菜パン、実に手の込んだケーキと見まがうような菓子パンが売っていた。三越はこれから社会に向かって旅立とうとする少年にとって夢を売ってくれたのだった。化粧品フロアの上品な香り、夕飯時ともなると都会のマダムであふれる惣菜売り場。いつの日か、僕も百貨店で買い物がしたい…そんな風に思ったものだ。働くようになり、思い描いていたような余裕のある裕福な暮らしには程遠い生活をしているが、本当に必要で、生活を真に豊かにし得るものは百貨店で買うことに決めている。品揃え、サービス、満足感、どれをとっても百貨店には特別な魅力がある。それを知る人は幸いなるかな!経済と労働、日本の在り方が見えてくる。百貨店で買い物をするとき、私は労働者として、経済を動かす一歯車として、お金の主人として毅然とした態度をとる。お金、商品、店員に敬意を払う。自分はまた一段、社会人としてステップアップしたような感じがする。だが、現代は百貨店にとって苦境の時代であるようだ。百貨店に足を運び、経済とは、労働とは、そして日本の立場とは、こうしたものを考えてみなければならない。私はこのとき、実際に複雑な感情にとらえられる。私は金を欲するのか、物質的豊かさを欲するのか?あるいはブランドや消費主体の経済を否定するのか?豊かさを百貨店と離して考えるのか?すなわち、経済社会は違う世界での出来事として認識するのか?その世界への気まぐれの旅とでもいうのだろうか?

百貨店は実におもしろい。
関連記事

障害が私を変えた


病気は肉体の障害であって、意志の障害ではない、意志が自ら病気を呼びよせない限りは。ちんばは足の障害であって、意志の障害ではない。何事かがきみの身に起こるたびに、必ずそう言い聞かせよ。そうすれば、いかなる出来事もきみに障害を与えぬことが分かるであろう。   『幸福論』 ヒルティ著


病気と名の付く障害は、周囲を説得し、外見でわかる障害は相手から理解を得やすい。ましてや意志の障害は孤独を一層深める。解けることない誤解の壁が私を取り囲んでいる。その病名を手に入れるために奔走し、見えぬ障害の傷跡を恨んだこともあった。障害を負う前の感覚を取り戻そうとの努力もむなしく、彼は別人となってしまった。活気に満ちた彼は過去の自分であろうか。疑うことをせず、他者の理解力を信頼し、ただ無邪気にふるまったあの日々よ。ヒルティのように強くなかった私は、自分自身をもゆがめてしまい、意志は空虚なものとなり、若い男の気持ちはわからず、女はわかるためのすべもない。一気に歳をとり、「若い時に、若かった者は幸せである」との言葉の通り、私は若くはありながら疲れ切った表情をして、老人のような日々の喜びに浸っている。私の考えることは、考えていないのと同じで、誰かを理解する役にも立たず、何かの理解にも役に立たない。障害は私が私であることを意味し、もはやそれから逃れられるものではない。人生は一度きりで、障害のない人生を送ることは無理なのである。すなわち障害を克服、乗り越えるのではなく、障害を両手に抱えながら歩める人生を探求するより、私に生きる道はない。彼にできることが、私にはできない。それは私に比較することをやめさせた。私は何とも思わないが、彼はいろんなことを考えている。それは私に人の考えることを理解しようと努力し、推測することを教えた。私は不完全な人間であるがゆえに、自分と他者とを区別し、それぞれを尊重することを学び、奢らず、謙虚であろうとする。私にはできないことが多い。それだけで傲慢にならないですむのである。それだから多くを欲し、期待し、望まないのである。
関連記事

毎日食べたい、食べるべき朝食がここにある 『山の上 ホテル』


夕食はホテルに戻り、「コーヒーパーラー ヒルトップ」でいただいた。

rs_top_ph.jpg(HPより)

クラシカルで落ち着いた雰囲気の店内。コーヒーパーラーとなっているが、ディナーも充実している。「懐かしの洋食セット」を注文。僕はメインを肉料理にし赤ワイン、彼女は魚料理に白ワインをチョイス。

陽はすっかり落ち、上り坂に面した窓から見えた通行人は食事の間で2,3人。とても静かな宵だった。懐かしの洋食との名の通り、品の良い食器に盛られたお料理はザ定番。教科書に出てくるようなベーシックなもの。味付けもシンプル。ゆっくりと食事の時間と空間を楽しむ、料理はそのわき役に徹しているように感じる。堅苦しくはないが、品があって心地いい。食後のコーヒーはしっかりと苦みのきいたまろやかな味わいでとてもおいしかった。

朝食は、「てんぷらと和食 山の上」が提供するもので、てんぷらの名店として知られているようである。

XL_053B72FDE08E4931B6A228801956C25D_convert_20151215134619.jpg(HPより)
この雰囲気、ちょっとやそっとで出来上がるものではない。年月によっても磨かれた金属光沢に芳醇な蒸気がゆっくりとしみ込んだ木目。天ぷら屋さん独特の空間が好きだ。イメージと違って決して油臭くない、むしろ香ばしさのイメージが鼻腔をくすぐる。

640x640_rect_7051476_convert_20151215133407.jpg
待ちに待った朝食は、豊富な小鉢、その一つひとつが日本料理の様々な技法が用いられており、贅沢である。味付けは驚くほど繊細で、素材を楽しむてんぷらのお店ならではの哲学さえも感じてしまう。ごはんに合うようにしっかりとした味付け(佃煮や干物)のものが並ぶイメージのある朝食だが、恐れ入った。栄養バランスも抜群であろう、味噌、根菜、胡麻、海藻といった滋養に富んだ食材が使われている。毎朝食べたい、いや食べるべき朝食が「山の上ホテル」にはある。これだけでも、とても有益な情報ではないだろうか。

関連記事

生涯に渡って自分自身(肉体的性質)を研究し続けなければならない

わたしたちがみじめな者になり、悪人になるのは、わたしたちの能力をまちがってもちいるからだ。わたしたちの悲しみや心配や苦しみはわたしたち自身から生まれる。精神的な悪は疑いもなくわたしたちがつくりだすものだが、肉体的な悪も、わたしたちにそれをつらく感じさせることになったわたしたちの不徳がなければ、なにも苦にならないはずだ。自然がわたしたちにいろいろな必要を感じさせるのは、、わたしたちの身をまもるためではないか。体の痛みは体の調子がくるっているしるし、そのくるいをなおせという警告ではないか。死は……。悪人たちはかれら自身の生活とわたしたちの生活を毒しているではないか。いつまでも生きていたいと思っているような者がどこにいるだろう。死はあなたがたが自分でつくりだしている病気をなおす薬なのだ。自然はあなたがたがいつまでも耐え忍んでいることを欲しなかったのだ。原始的で単純な生活をしている人間は、苦しみに悩まされることがどんなに少ないことだろう。そういう人間はほとんど病気をすることもなく、情念も感じないで生きているし、死を予感することもなく、感じることもない。それを感じるときには、かれのみじめな状態が死をありがたいものにしている。だからかれにとっては死は不幸ではなくなっている。あるがままで満足していれば、わたしたちは自分の運命を嘆くことはあるまい。ところがわたしたちは、空想的な幸福をもとめて、かずかずの現実の不幸をまねいている。すこしばかりの苦しみにも耐えられない者は、多くの苦しみをうけることを覚悟しなければならない。人は、不規則な生活によって体をそこなうと、薬によって健康を回復しようとする。いま感じている苦しみに、さきのことを心配して、さらに苦しみをつけくわえる。死の予想は死を恐ろしいものと感じさせ、それをはやめる。死をのがれたいと思えば思うほど、いっそう身近に死を感じることになる。こうして人は一生のあいだ、自然に背いたことをして自分でまねいた悪を自然のせいにして愚痴をこぼしながら、恐れのために死んでいるのだ。   『エミール』 ルソー著より


私の思想のルーツがここにあり、ルソーを愛してやまない理由もまたここにある。

”病気にならないような生き方”

これは一つの生活方針であると思う。健康は最も尊い。親からもらったこの身体、長く快調に保ちたい。人間は元来、快適さを求める。しかし、一番手近な肉体に対しては快適よりもむしろ、不快や苦痛を欲しているようである。これはいったいなぜであろう?私たちは刺激を求めすぎるあまり、あらゆる刺激に慣れすぎてしまっている。自然があまりに味気なくなってしまっているのである。

自分の身体が、脳も含めて、唯一無二の私にだけ与えられた特別なものであるとわかったとき、私は生涯に渡って自分の特性を研究し、それに適った暮らしと日々を実現していかなければならないと思った。すなわち、適切な睡眠時間でさえも、個人差があり、理想を追求する必要があるということである。常識は絶対ではなく目安となり、時間をはじめとするあらゆる数字によってあらわされる概念は社会という枠組みの中で考えられたものであって、一個人としては時間は参考になるだけである、時間が何かを強制することは本来ありえないことだ。私たちは太陽に支配されているのか?それとも時間に支配されているのか?考えてみればわかることである。私の健康へのアプローチも同じ過程をたどる。私にとってのアルコールはどうなのか?たとえアルコールが毒だといっても、あの香り、あのおいしさ、あの気分を味わうことこそが人生だといえなくはないだろうか?単に長生きしてみたところで味気ない。病気になってもつまらない。私はもはや矛盾を恐れない。酒をあおりながら、健康と長寿を賛美するのである。いや違う、私は人生を賛美し、わが肉体を賛美するのである。
関連記事

人生は選択の積み重ね


人生は選択の連続であり、その一つひとつの選択が私の人生を決定づけている。今の自分はほとんど自分の意志による選択で形成されている。しかし、すべてを自分の選択によって決めるのは自由だけれど、煩雑で大変なので、慣習や伝統はこれを軽減する役割を少なからず果たしている。自分で選択をしてみて、結局慣習と同じ結論に至った場合、なるほど遠回りをした、はじめから昔の人が経験によって培ってきた知恵や習慣を見習っておけばよかったとなる。私なりに人生を振り返ってみて、この総括をいずれしたいと思っているので、あらゆることに疑問を抱き、一つひとつの選択を偏見や思い込み、周りの影響などによって惑わされないように注意しながら、最善と思える選択を積み重ねていきたい。最善ということはそのときの主義や思想によって左右されるので、理想的とは言えない、だからこそ補正や修正可能な選択をすることもときには最善といえるだろう。ゆえに、私には時間が必要であり、迷い、立ち止まることが多いであろう。それによって時間を消費し、もっとも大切ともいえる時間―特に若さだろうが―を失ってしまい深刻な事態を、時間を取り戻すという不可能な要求をせざるをえない状況に陥ることもないとは言えない、そのときには、若さは何物にも代えがたいと結論するにちがいないが、これはあまりにつらい、私だって、人の忠告の為に生きるわけではないのである、自分自身の為に生きるのであって、その後悔はあまりに一度の人生において惜しいものだ。

書きたいことはたくさんあれど、時間がない、どうにかしなければ

関連記事
プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

無料メールマガジン
メルマガ購読・解除
 
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

twitter
月別アーカイブ
最新トラックバック
最新記事
最新コメント
リンク
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。