東京駅 大日本帝国と経済大国日本

東京駅が開業当時の姿に復元されたとのニュースを耳にし、俄然関心がわいてきた。それまで首都東京と東京駅が同列で思い浮かんだことはなかった。それは社会や世間が東京駅に無関心の気味があって、東京駅を注視する価値を有するという一般の了解なかったゆえであろうと思う。まだ見ぬものに対する関心は、その見せ方や見られ方によって正にも負にもコントロールされるのである。

僕にとっての東京駅はテレビか何かを媒体として出現した味気のない建物で、創建当時は不明で、従来の様子にも確かなイメージはなかったので、復元はそれ以上の意味を持たなかった。

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そんな気持ちで東京駅を訪れたものだから、その驚きと言ったらひとしおだった。東京のど真ん中に明治時代を彷彿させる一目では把握しきれぬ三階建て横長の巨大な駅舎が構えているのである。横長であることは電車との関係性から何の違和感もなく、三階建てであることは数字や記号による情報化がされていない旧式の時代を考えれば当然のことと思える。実際は現代的に、東京ステーションホテル―憧れのホテルであるが、高額な宿泊料のため生涯の夢とするほかなさそうだ―の客室があてられていて、精妙なコンセプトをうかがい知ることができる。正面に揺らめく国旗は大日本帝国の象徴と見え、やや時代錯誤の観を呈する。しかしながら、せわしなく行き交う人々、立ち並ぶ高層ビル群(三菱グループのビルが目立ち、財閥の強力さと国を動かしている納得の堅硬な土台に圧倒される)、機能化が進む周囲一帯に向かって訴えかける、国土に根付く日本様式、日本的思想を忘れるな。

残念なことに、遮蔽物が邪魔をして東京駅の全貌をその厳かなたたずまいを視界に収めることはできない。それはまるで、私利私欲、思惑、悪習が被災地の復興や国家の再建を滞せている現実を表しているようである。
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現代に描くべき文学

最初に小説をものした人の創意工夫は、われわれの感動装置において大事な要素となるのはイメージだけなのだからと、現実の人間をすっかり抹消してしまう単純化こそが決定的完成になると理解したところにある。現実の人間は、その人にどれほど心底から共感しても、その大部分はわれわれの感覚により知覚されるがゆえに、結局のところわれわれには永久に見透せずわれわれの感受性には取り扱えないお荷物となる。現実の人がある不幸に見舞われた場合、われわれはその人についていだく全概念の一部を動員して同情するのであり、おまけに当の本人が自分自身に同情するのも、本人が自分自身についていだく全概念の一部を動員するからにほかならない。小説家のじつにすばらしい発見は、このような心の入りこめない領域を、同量の非物質的な領域に、つまりわれわれの心が吸収できるものに置き換えることを想いついたところにある。そうなると、この新たに編み出された人物たちの行動や心の動きがわれわれに本物と思えてくるのも、けだし当然である。   『失われた時を求めて』 プルースト作


僕が小説を書く上での三つの困難、性描写、女性像、物語の一般性(事象の単純化)。これらは端的にいえば、僕が自分の体験や経験、モデル、あるいは題材から適切に核心を抽出し、イメージに置換する能力に欠けているがために引き起こされる。この能力こそが才能と言われるものであり、僕には残念ながら小説家としての才能はない。その事実を把握していることで、自分自身を救っている。なぜなら鳴かず飛ばずの小説家になることを未然に防いでいるからである。その自覚が仮になくともブログを綴ることに哲学的、もしくは文学的な自分なりの第一義を見出していることがその感性の欠落を物語っている。それはあくまで小説・詩を文学の最高峰と定めた場合であって、ブログやエッセイなどに定めたとしたならば、才能があるとも言えなくはない。だが、僕はやはり小説・詩を文学のみならず哲学の最高峰と考えるので己に失望感があることを否めない。

かつて性描写はあまり描かれていなかった、その必要性も薄かったのかもしれない。同時に女性像、女性の見方やそのふるまいについても歴史的背景も相まって重要視されなかったのだろう、日本で言えば確実に女性蔑視があって、イメージ先行でも根拠に乏しくても女性っぽくありさえすればよかったにちがいない。しかし、現代ではそういうわけにいかないと僕は考える。かつて子どもに人権がなかった時代があった如く、女性についてもその傾向がまだ残っている。男性が描く女性像の押し付けが横行している。文学がそういうものを先導することが決してあってはならない。この世界を描くとなれば、人間には男女という性があり、人と人との間には愛が生まれる。だから、これらを描かなければ、人間を描いたことにはならない。たしかに、女性や性について(僕は男性であるからこのような立場と言い方になる)書かなくても小説は可能である。だが、そんな弱い薄っぺらなもの、つまらない。現代に描くべき小説・詩、総じて文学というものは非常に難しく、大きな困難をはらんでいる。これに立ち向かい、乗り越え、新たなスタイルを確立するような作家が求められる作家だと思う。(もっとも僕の無知ゆえ、その文学の存在を知らないだけということもある。だから僕は古典から現代にいたる文学の潮流を順に辿りながら読書を続けているわけである。)
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Diorを代表する「Lady Dior」、「Miss Dior」

偶然だったのだが、「エスプリ ディオール-ディオールの世界」という展覧会が銀座で開催されていた。無料ということだったが、その会場は洗練された煌びやかさに包まれ、エントランスゲートではピシッとスーツで決めたナイスガイが歓迎していた。

それまで僕もAも何かディオールのアイテムを愛用したことがなかった。こんなぺーぺーがディオールなんて相応しくない。けれど無料だし、旅の一興にもなるということで見学することにした。Aは女の子らしくおしゃれや美しさやかわいさに興味があった。ドレスや宝石などをみつめるその目は輝いているようだった。僕は着てみたいとかつけてみたいと思うわけではないのだが、それでも心を虜にする何かがあることは感じた。華美、装飾、豪華を好まないが彼女らの本能に近いような美しいものと同化したいという願望を理解したいと思う。女性は美しいものである。彼女らはきっと花や宝石、空や海に自分の姿を溶かし込んでいるのだろう。

ladydior-paris1_convert_20151116225254.jpg(HPより)
Diorの代表的なバッグ「Lady Dior」の様々なデザイナーとのコラボ作品の展示がとてもおもしろかった。すでにオリジナルには強烈な存在感がある。一見複雑に見えるフォルムは幾何学パターンの反復である。しかし絶妙に配されたドーム状の浮き模様がそのデザインを秀逸なものにしている。そしてそれが熟練の職人の手によって生み出される。ドラマチックで感動的である。その造りの精巧さは内部にも宿っており、一流ブランド品とは何か、という問いに一つの答えを与えている。Aはその持前のセンスによってその偽物を韓国旅行に行った友達に頼んだ買ってきてもらったとらしく持っていた。本物は全然違うと驚いていた。

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そしてこちら、「Miss Dior」。会場で実際にリボンを結び、箱詰めするという仕上げの作業を専門の職人が一つひとつ丁寧に行なっていた。

こんなの可愛い、かわいすぎる。ずるい。僕も女だったら欲しいと思うだろう。そしてその香りをまとって幸福感に包まれるにちがいない。女性の楽しみは無限であることを思い知る。僕らはその楽しみの手助けをし、邪魔をしないようにしなければならない。香りは嗅覚から頭脳に直結し、鮮烈に記憶に残るそうである。「Miss Dior オリジナル」の香りは気高い女性のようなかぐわしさというよりは訴えてくる香で少し強めであった。香りにも好みや性格があっておもしろい。

俄然ブランドに興味が沸いた僕たちはそのままDior銀座店で半ば冷やかしではあったが商品を物色してみることにした。バッグはかなり高価だったから、数あるフレグランス類の中から好みのもの―香水よりもボディークリームの方が実用的だからというのでボディクリーム―を旅の思い出に購入した。
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報じられない真の善意の顔を求めて


人物の心が、その人物を通じてあらわされる美徳に(つくなくとも見た目では)参与していないという事実には、その美的価値はべつにして、心理学上の真実とはいえないまでも、すくなくとも俗にいう人相学上の真実が認められるかもしれない。のちに私は、人生の随所で、たとえば修道院などで真の聖人というべき活動的慈愛の化身にずいぶんめぐり逢ったが、その人たちはたいてい忙しい外科医のような、快活で、実際家らしい、無関心な、つっけんどんな表情をしていた。それは人間の苦痛を前にいかなる憐憫も同情もあらわさない顔であり、人の苦痛を傷つけるのをすこしも怖れない顔であるが、その優しさを欠いた、感じの悪い、だが崇高きわまりない顔こそ、真の善意の顔なのである。   『失われた時を求めて』 プルースト作


イケメンが取り沙汰される時代になって久しい。これは資本主義、ひいては商業主義と深く関係している。その時代その時代によってイケメン像は異なり、社会の変化とともに変遷をたどっているはずである。ゆえにそれを研究することは意味のないことではなさそうだ。僕は所謂イケメン、その象徴ともいうべきジャニーズ系が好きではない。毒にも薬にもならない連中の集まりにしか見えない。明らかにある傾向を持っていることも釈然としない。くりくりした愛らしい目、すっきりと鼻筋が通り、ほっそりとした顎…。ジャニーズのみならず、いわゆる美しさ、かっこよさというものは作為的に生み出されている側面がある。そこには資本主義の根幹の商売および広告、時代や歴史、あるいは人種問題まで関係が及んでいる。その一方で僕らは真の善意の顔というもののある一定のイメージすら持っていない。これは哀しむべき事実である。ニュースにしろ広告にしろ、犯罪者や運動能力の高い人物、自分を商品として売っている品のない芸能人などを私たちに伝える。テレビや新聞・雑誌に真の善意の顔が映ったり、載ったりすることはごくごくまれである。そんな世の中ではあるけれども、僕はなんとか経験に基づく統計によって真の善意の顔とはどのようなものか、というイメージを形成していくため常日頃努力している。絶対にその傾向のようなものはあるはずだと信じている。たとえば額が高いと知力に富んでいるといわれるように。だから多くの人の話を聴き、多くの人と実際に会ってみるということは効果的だと考えている。もっともその取捨選択が重要であり、その基準としてイメージが要求されるわけで、簡単ではない。今回取り上げた、『失われた時を求めて』の一節は信頼のある大いに参考として役立つのではあるまいか。
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密かな懊悩

「遅かれ早かれ奥さんの知るところとなると思うよ。そう長く隠し通せるものでもあるまい。それよりも、君が洩らさずにいて、よそから奥さんの耳に届いたりしたら、もっと大事になり、それこそ理不尽な仕打ちになるだろう。愛する人からの打ち明け話なら、どんなに辛いことであってもいくぶん和らいで伝わるものだからね。しかも、君はだね、奥さんは心からの同情をもって慰めの言葉をかけようとしているのに、それを自ら拒もうとしているんだよ。それだけではない。お互いの心を結びつけている唯一の絆を断ち切ろうとしているんだ。つまり、自分の思いや感情を一緒に分かち合う術を失おうとしているわけだ。奥さんは、いずれ君の抱えている密かな懊悩に気づくだろう。それに、本物の愛で結ばれた夫婦であれば、何も隠し立てすることではないはずだ。愛する夫の悲しみごとだとしても、下手な隠し立てをすると、妻というものはどこか心のなかで相手に見くびられたと感じて耐え難いほどの屈辱感に苛まれるものだよ」   『スケッチ・ブック』 アーヴィング作


彼女に大学を出ていないことを正直に話すべきだと親友は僕に説いた。彼は僕の懸念を分っていたように就職の不利をやわらげるいくつかの方法まで提案してくれたのだった。僕は友人に大学を出ていないことを告げることになんの抵抗もなかったが、生活的関わりのありうる間柄の人たちに対しては抵抗を感じていたのだ。大学を辞めたことを意気地なしだと思われるのが嫌だったからである。友人たちについてはそれぞれが好きなように解釈した、それでいいと思った。贔屓の目で見てくれるかもしれぬし、仮に心のなかで馬鹿にしていたとしても、それはそれでいい気がした。しかし、彼女に対してはそういうわけにはいかなかった。

またその親友の提案に対しても、僕はほぼ同じ理由でそれを諦めるほかなかった。打算的な僕が大学を辞めるということは在りえないことだし、あのような低レベルな大学に通うことは考えられないことだった。けれども、それらをもっともらしく誤魔化すため、演技と道化を講じたわけである。これはうまくいったようだった。

大した問題ではない。その通りだ。親友は食わず嫌いと同等であると問題視しなかった。ピーマンが食べられないなら、ピーマンをよけて食べたらいいじゃないの。それが彼の主張であった。

今まで告白しようと試みたことは何度かあった。それで絆が深まることもない話ではないと思ったし、なにより不誠実だと感じていた。けれども、僕が僕自身をもっとも憐れんでいたからそうすることができなかったにちがいない。彼女は僕のことをよく知っていた。

よく散歩した公園で、僕らはいつもより長く逍遥した。人影はなく、掲揚塔の間から夕陽が差していた。切り出した大きな石のベンチに座ってからも、しばらく憐みのない瞳を惜しんで、僕は話し出せなかった。かすかな一陣の風が僕の背中を押したようだった。

初めに彼女が発した言葉は僕の体を気遣ったものだった。「生活に差支えない程度に大丈夫だ」僕はこんなことを言ったような気がする。僕の話しぶりはもったいぶったものだったから、余命宣告を受けた重病患者顔負けのものだったらしく、ほっとした。ということだった。僕にとっては深刻な問題であっても、僕だけに深刻なのである。心臓病患者が一生その脈打つ働きをケアしなければならないように、僕にもまたそういった制限がある。ただそれだけの話。けれど、彼女は僕のことをよく知っていた。

これから先、悪化し制限が一層厳しくなるかもしれないということ、彼女は僕という人間をよく理解していたから、端から期待していなかったのかもしれないが、まともな仕事には就くことができないであろうということ、そのためにも大学は出るべきであった。僕にとってはその運命こそが大きな問題であったのだが。誰よりも大学を出たかったのが僕なのかもしれない。しかしそれは叶わなかった。

幸い彼女は学歴など気にしないということだったし、貧乏ということについては実感もなくわかっていないようだった。なんとか彼女を幸せにするために僕は運命に反抗し続けなければならない。
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携帯すべき「神の歌」 『バガヴァッド・ギーター』

スマホなんかよりずっと携帯すべきものがある。それは『バガヴァッド・ギーター』、神の歌。

これは不思議な書物だ。魔法の書である。僕はこれまでこんな特異な読書体験をしたことがない。「ヨーガ」・「放擲」・「専心」、これらの概念はいまだ僕が体得できていないものであった。しかし、それでもどういうことなのかというイメージはつかめる。そしてこれらがいかに自己を解き放ち、世界から自己を脱却させるのか、それは理解の範疇にある。

思うに、僕の生きているこの社会にはこの『バガヴァッド・ーギーター』に通じるものは何一つないと思う。この書が特別なものであることはすぐにわかったので僕は少しずつ読み進めていった、それはまるで時々沐浴で体を清める旅人のように、日々の生活で社会という名の毒にあたって、それを解毒するようなものであった。神の歌は告げる、結果に執着せず、本性に従う行為をなせ。すべてを平等とせよ。専心し、放擲せよ。

無私でもなく、則天去私でもなく、創造主という感覚は西洋思想にも通ずるのか?でもやっぱり独特だ。僕にとって、宗教の書?としてはもっともしっくりきたものだった。必携の書。
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プロフィール

hajime

Author:hajime
ぜひ、高校生や大学生などの青年諸君に注意深く読んでもらいたい。むやみに多読する必要はなく、知識や思想の力があれば悩みに打ち勝つこともできるのだ。僕自身が高校時代から現在に至るまで苦悩と苦悶を繰り返しながら、懸命に人生について、「善く生きる」とはどういうことか、ということを真面目に考え、行ってきた事実をここに記している。その内容はきっと青年に役立つであろうと思わないではいられない。

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